崎戸獅子舞について

名古屋市オアシス21での熱演

崎戸獅子舞について

 崎戸町は、江戸時代は捕鯨、明治〜昭和40年代炭鉱の島として栄えました。
 平成17年4月近隣の5町が合併し、西海市となりました。

 崎戸の獅子舞は、大正時代に四国出身の炭鉱従事者が坑内での安全祈願のため、四国地方の獅子舞にならって炭鉱の大山神社で奉納したのが始まりとされています。
 昭和43年崎戸炭鉱が閉山し、過疎化が進んだ中でも郷土の伝統を絶やしたくないという有志によって保存・伝承され、今では崎戸町の秋のお祭りにはかかせない存在となり、お祭り当日は神様の露払いとして、町中の家々を一軒一軒清めて廻っています。
 獅子から頭をかんで貰うと、家内安全、無病息災、商売繁盛でその年を過ごせるという、たいへんおめでたい舞いとして継承されています。
 獅子頭は 佐賀県鹿島市在住の 梶原一龍氏の作品です。
 大太鼓小太鼓の演奏にあわせて踊るこの獅子舞は、3部構成になっていて舞い手によって獅子の表現の仕方が違います。
 太鼓の打ち手と獅子が格闘する様子をはじめ、赤獅子が寝ぼけて自分の足をかんでおどろく様子や寝返りを打つ仕草が表現されますが、特にこの獅子舞の勇壮さを象徴するのは獅子の後者が前者を肩に担いで紙吹雪を巻きながら廻るシーンです。

 獅子の頭には、折り紙でつくられた御幣(ごへい)がたくさんつけられています。
 お祭り当日は、家に入るときにまず太鼓が入り、次に獅子が玄関口に入り御幣をちぎって玄関口におきます。するとこれを貰った家庭は神棚にこれを1年間かざっておきます。そして、毎年秋のお祭りでかえていくという伝統があります。玄関に入るときには、太鼓をたたきながら家内安全、無病息災と言って入ります。まさしく、神様の露払いとしての仕事です。

                                (名古屋市での崎戸獅子舞実演の際のアナウンスから引用させてたいだきました。)
   崎戸の祭り

  (左)「蛎浦くんち」での崎戸獅子舞
       
(平成6年10月16日) 3分12秒

  (中)手作りの「コッコデショ」と子どもたちによる獅子舞
       
(平成6年10月16日) 2分54秒

  (右)ながさき「しまの日」での崎戸獅子舞実演
       
(平成7年 8月 1日) 2分13秒

    崎戸町在住のSさん提供(画像をクリックすると始まります。)


蛎浦くんち(左・中)  ながさき「しまの日)(右)

崎戸炭鉱と獅子舞

 崎戸の獅子舞は、崎戸炭鉱が華やかりし頃、炭鉱に勤めていた人が自分たちのふるさと(四国地方)から持ち込んで、炭鉱地区の各地で行ったのが始まりといわれています。

 明治時代から炭鉱の町として繁栄していた崎戸町でしたが、昭和30年代末エネルギー政策の転換(石炭から石油へ)によって炭鉱の本坑(1坑地区)が閉山し、その後2坑地区も昭和43年に閉山しました。

 炭鉱閉山後の崎戸町は、炭鉱従事者は少なく製塩や漁業その他で生活されている方が多い「蛎の浦地区」と、炭鉱には従事せず漁業関係者が多数を占める「本郷地区」で構成され、現在に至っています。

 崎戸の獅子舞は、崎戸全体で獅子の舞い方、太鼓のたたき方はまったく同じでした。

 炭鉱の閉山と共に、炭鉱で生活していた方々は全国に散らばり、それぞれが新しい生活を始めましたが、ふるさとの崎戸を想う気持ちは、それぞれの方の心の中に現在でも強く息づいています。

                          (ワキさんの掲示板の書き込みを参考にさせていただきました。)

昭和40年頃の崎戸町の獅子舞(崎戸炭鉱・2坑地区の獅子舞  ワキさん提供)



崎戸獅子舞実演へ戻る