千町誓願寺の盆踊りについて
 天正13年(西暦1585)豊臣秀吉の四国征伐の際、土佐長宗我部元親が伊予の新居地区・石川備中守護る高峠城へ伊東近江祐晴以下 60余名の軍勢を援軍として送り込むが、時すでに遅く高峠城は落城し、攻めるも引くも成らず、 千町の鎌切山南麓に兵を休め、暫しばし潜んで様子を伺って居たが、水が豊富で地形も農耕に適している事に着目し、此処を開拓し住み着く事と成る。
 伊東姓の元は、源頼朝時代に先祖が勲功より伊豆の東の地を賜り、その地名を取り伊東姓としたが、近江守より9代目祐義の代、文政12年 (西暦1829年)一族の会議で元祖は藤原の家系ある事から、伊東を伊藤姓に改め、各所に配した家臣達にも伊藤姓を名乗らせと伝えれられている。

 いよいよ千町開拓が始まるが、近江守祐晴は僅か2年後の天正15年6月に没している。息子祐治の代となり、父の守り本尊である十一面観世音、脇立薬師、地蔵三尊を妙華山誓願寺に祀ると記されている事から推察すると、近江守が家臣達の霊を慰めるために盆踊りを始めたと伝え聞いているが、誓願寺の盆踊りとして現在に伝えられて居ると云う事は、二代目祐治の代に、寺に納めた十一面観音の供養と父や家臣達の慰霊の為に踊り始め たのではないか?と想像します。此れは全く私流の考えですが・・・。
盆踊りで踊られていた「扇子踊り」
 さて 、伝承の盆踊りですが刃踊りと扇踊りの二通り有り、昔からの習慣で先ず刀踊りと次に扇踊りと成っていて、何れもその太鼓のリズムから刃踊りは「とんかかさ」呼び、二人一組で踊り、扇踊りは「とことん踊り」と呼び、此方は各人が自由に踊りの輪に入る事出来、昔から旧盆の18日に誓願寺境内で踊り継いで来たが、古くは老若男女入交じっらしいが、何時の頃からか青年や子どもたちの役割りの様に成った。 誓願寺はその霊験誠にあらたかで参拝者が多く、特に正月や盆の18日には近隣の在所から大勢の参拝が有り、境内に出店が並び「のぞき」と云う見せ物等 、その盛況ぶりは昭和の初期まで続いたらしい。何時頃からか、素人芝居も始まり農作業の合間に若者たちが集い練習を重ね、近隣の農家から稲木竿や縁台を借り集め 、にわか仕立ての舞台を造り、わらむしろを敷いた境内に宵の口から、三々五々と観客が集まり、開演時にはお堂の前まで連なった。

 夕暮れ近くなり、青年たちや化粧して赤い長襦袢に襷掛の子どもたちによる刀踊りで幕が開く。娘さんたちの日本舞や、人気のあるやくざ踊りに続いて、現代劇から国定忠治や清水の次郎長伝のような時代劇、又々菊池寛の名作「父帰る」や、お馴染みの「瞼の母」さらに歌舞伎調の「与情情浮名の横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」と云う、切られの与三郎、お富さん(ゆすり)名場面等々、数えあげれば切りがないが、舞台に出るや否や主役に切られ、舞台の袖に転がり込む脇役から、主役を演じる名優?まで1ケ月以上も練習を重ねた若者たちが、二晩続きで演じるので、此れという娯楽のない山里では大層な人気でした。 此の様な光景は昭和30年頃まで続いたが、その後は青年団による盆踊りとなり、加茂や大町、飯岡等の青年員員が集い、櫓を組み、団による盆踊りとなり、伝統の刀踊りに始まり、炭坑節や数々の踊りを浴衣姿の男女や子どもたちも揃って夜更けまで踊った。その後青年団活動も無くなり、伝統の踊りも踊り継ぐことが出来な盆踊りが行われていた「誓願寺」くなった。
 
 話は一挙に大正時に遡るが、その頃盆芝居は、専ら浄瑠璃で有ったらしい。当時は、 義太夫三味線と云う太棹の三味線が、旧家に有り、独特の音色で弾き語りをする人たちも多く、盆や正月或は祭や農閑期には集い合って、浄瑠璃を楽しんだらしい。記録がないので定かではないが、此の頃に若者たちの有志で「棚田若之助一座」という座を組み別子や新居浜方面に出かけていき 芝居をやったもんじゃ。」と古老が話していた。証拠品も残っていた。現在の千町集会所の場所に、千町青年倶楽部が有り、その押入れの片隅に「棚田若之助一座さんへ」と染め抜いた、贔屓の方々から贈れたらしき、芝居小屋用の布幕が残っていたが、集会所に変わる時に廃棄された。素人芝居の面白さは、その熱演もさる事ながら、台詞を忘れて暫し立ち往生したり、名場面に大見得を切り顔を振り上げた途端、頭からカツラがころりと落ち、大慌てに拾い上げ頭に載せれば逆様だったり、観客席がどっと沸きあがる・・・これこそ素人芝居の醍醐味なのかもしれない。
 
 昭和40年代に入り、テレビ・洗濯機・冷蔵庫と一挙に便利になり、生活も豊かになり始めると同時に、若者も便利で働き口のある市内に住み始め、棚田や段畠の農業も平日は町の工場等に送迎を受け乍ら働き、農業は日曜百姓となり、過疎化が一気に進み、かつての長閑な山里の生活はなくなり、来る日も来る日も少しの余裕もなく働き続ける時代となる。青年団活動も消え、続いていた山里の盆踊りも、四百年以上も続いた伝統の刀踊りも消え失せて、やがて遠い昔の語り草となるのだろうか・・・。

      出典:加茂公民館だより(平成25年10月、12月号 加茂の歴史 〜千町シリーズ〜 ) 
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