加茂の生い立ち
中之池地区から寒風山・伊予富士を望む
中之池地区から寒風山・伊予富士を望む(昭和39年)
このあたりで「弥生式土器」が出土した


【加茂の生い立ち】

加茂地区には、いつ頃から人が住んでいたのでしょうか。
旧中之池中学校の真下で、国道が急カーブしている道路の下側の畑に 「弥生式土器」が出土してます。 このことから考えると、中之池地区にはすでに弥生時代から人が 住んでいたということが立証できます。

大化の改新後奈良時代になり、この地方は加茂郷と呼ばれました。

また、鎌倉時代末期の鎌倉の覚園寺古文書には「新居西條庄八ヶ村の内、 四ヶ村は京都の遍照心院領、他の四ヶ村は鎌倉の覚園寺領とする。」 という文がありますが、加茂地区は、遍照心院領に組み込まれていたの ではないかと言われています。

戦国時代(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐の際、 伊東近江守祐晴が石川備中守の援軍として土佐(高知県)からやってきて、 討ち死にした備中守の一子「虎千代丸」とともに 千町(せんじょう)地区の土居に住み着きました。
近江守は土地の開拓に心血を注ぎ、千町地区に見事な段々式水田 を作り上げました。
その後、彼の子孫は風透、御代地、吉居、荒川などに分かれて開拓を行い 現在に至ったようです。
近江守が守本尊としていた十一面観音は千町の誓願寺にまつられています。

藩政時代の加茂地区は、千町山村、荒川山村、藤之石山村として栄えました。

明治22年、町村制実施に伴って、3村が合併して加茂村となりました。

昭和31年9月22日、西条市に編入され、現在に至っています。

【歴代村長】
初代、2代    明治23年〜  十亀暉太
加茂村初代村長
3代        明治31年〜  高橋伊勢五郎
4代        明治35年〜  高橋勝利
豫土横断道路(西条〜高知線)の必要性を着眼した伊藤善也氏とともに高知県に行ったが、奔走中に日露戦争の開戦となり中断を余儀なくされた。
任期満了後に退任し、北海道へ移住した。
5代        明治39年〜  平田時次郎
6代        明治43年〜  伊藤勝次郎
大正元年、愛媛水力電気株式会社が下津池に発電所を設置することとなり、その工事資材の運搬のための道路改修を、水電会社の75%の費用負担で実施することを決議した。
しかし、道路敷地関係者の一部が反対運動をはじめ、このことが、村を二分する騒動となり、この混乱の中で道路改修はご破算となり、村長自身も辞表を提出することになった。
7代        大正2年〜   東恭一
8代        大正6年〜   伊藤孫右衛門
9代        大正9年〜   伊藤善也
明治10年生まれ
郵便局長、加茂村の助役を経て村長となり在職期間は24年間にもなる。
豫土横断道路(現在の国道194号線)の重要性に着眼して、明治38年以来その促進運動に情熱を傾け、この運動が道路の開設の基礎となった。
10代       大正13年〜  伊藤国太郎
11代、12代、13代 昭和2年〜  伊藤善也
昭和2年に加茂土工森林組合長を兼務し、舟形から川来須にいたる軌道の延長及び改修を完成させた。
昭和7年以降は、県道加茂〜西条線の改修、吉居林道、蔭地林道の開設、その他村道及び橋梁の改修に努力を傾けた。
昭和9年の風水害には、復興の大事業を成し遂げた。
伊藤善也氏の功績を後生に残すため、昭和24年、元加茂村役場(旧加茂地区公民館)下に加茂村及び加茂森林組合によって石碑が建てられた。
14代、15代、16代 昭和22年〜 高橋楚夫
加茂村最後の村長


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