吉居(よしい)

吉居集落(昭和56年撮影)

下津池小学校吉居分校跡(平成20年撮影)
 吉居集落は、国道194号沿いの下津池から吉居林道を4キロほど登ったところにある集落です。昭和39年に下津池から林道が到達するまでは、車での通行ができない集落で、加茂地区では最も不便な集落のひとつでした。

 集落からは高知県境の笹ヶ峰を仰ぎ見ることができ、広大な国有林に囲まれたこの集落は、昔は製炭業を最大の生業としていました。明治・大正年間は、吉居集落でつくられた木炭は、川来須などの木炭とともに、笹ヶ峰の中腹の宿をへて別子山の中七番に駄馬で運ばれていました。大正中期以降は、木炭は、千町を経由して駄馬で西条へと搬出されるようになりました。

 製炭以外では、明治年間に寸太(すだ・薪材のこと)流しが盛んに行われていました。急流の吉居川は、用材の流送はできませんでしたが、薪材の流送には十分に耐えられたので、寸太流しも貴重な源収入源となっていました。用材は、昭和の初期に千町に通じる木馬道が開通してから盛んになりましたが、それまでは山中から伐り出した木を負子によって千町経由でわずかに西条に搬出する程度でした。

 吉居集落には、水田がなく、食料は、焼畑耕作によって賄われていました。吉居集落では、明治年間以降、山林を外部の大山林所有者に順次売却していったので、多くは外部の山林地主の山が焼畑の対象になりました。焼畑での主な作物は、春焼きの山でひえ、あずき、とうもろこしであり、夏焼きの山は、そばが主作物でした。明治中期頃に焼畑に導入された三椏は、昭和30年頃まで盛んに栽培され、住民の貴重な収入源となっていました。焼畑耕作は、小作料はとられず、地主の提供する杉苗を植林することが代償でした。

 天保13年(1842年)の西条誌によれば、家数は17軒とあり、明治・大正年間は、20戸程度で推移しましたが、その後、戸数は少しずつ減少し、昭和25年は15戸、昭和35年は13戸となりました。吉居集落の戸数が激減したのは、昭和41年に加茂中学校が市街地の南中学校に統合され、昭和47年に下津池小学校吉居分校が加茂小学校に統合されることになったことによります。昭和50年には、戸数5戸の集落となり、現在では、住民1人のさみしい集落となっています。

 最近まで残っていた吉居分校跡も平成20年に取り壊され、現在はありません。
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