加茂の集落
 加茂の地名については、大化の改新により、国・郡・里の制度が設けられましたが、奈良時代になり国・郡・郷の制度に変わり、この地方が伊豫国神野郡(後で新居郡と改称)加茂郷といわれたことに由来するものと思われます
【荒川地区】
 西暦158年(成務28年)に中野に伊曽乃神社が創祀された頃の荒川本郷(大平・下分)の東向きの山麓は、傾斜の緩やかな台地が20ha位あり、その東側下方(河ヶ平)を加茂川が現在の川より20m位高いところを蛇行して流れていました。その台地には、椎(シイ)・樫(カシ)・椿(ツバキ)等の照葉樹が自生し、中心部の山元から清水が湧出し、薪木等の木材が沢山あったので、木材を伐開して焼畑農業をする人が住み始めました。
 西暦735年(天平7年)頃の荒川本郷集落の標高250m以下の傾斜の緩やかな台地の森林は、ほとんど開墾をして農地になって農業をする人が多く住んでいました。
 しかし、集落東下方にあった加茂川が、暴風雨による大洪水のたび、川沿いの農地や森林を流失させて、その上側が崩壊して川沿いが荒地になっていたので、この辺りの川を荒川と言うようになって、集落の地名も「荒川」となりました。
 出典:加茂公民館だより(平成26年4月号・加茂の歴史)
◎八之川(はちのかわ)上、下
 国道の改修工事により地区の中心に八之川トンネルが抜けて、国道沿いの民家が立ち退きになりさびしい地区となりました。
 トンネルができる前の旧国道を歩くと、大岩が道の上に覆いかぶさり、このあたりがいかに急峻な地形で、国道をつけるのに苦労したかがわかります。
 車の入らないところに民家が点在しています。この地区の子供たちは、かつては荒川小学校に通っていました。そのこともあって、荒川の獅子舞が八之川に伝わり、「八之川の獅子舞」として伝承されました。子どもたちは、それぞれのお祭りを自慢していましたが、その後、八之川の子どもたちは、下津池小学校に通うようになりました。八之川のお祭りで獅子舞が行われていた頃は、この急坂を上り下りして1軒1軒すべての家の軒先で獅子を舞っていました。その当時の賑わいは今ではなくなり、人の住んでいない廃屋のみが残る無人の集落になってしまいました。(平成29年12月現在)
◎李(すもも)
李集落(正面に千町地区を望む)  昔「すもも」を栽培していたところからついた名前と言われています。 今も樹は残っていますが、人は住んでいません。時折畑を作りに元の住民が帰ってきているようです。
 かつては、山の斜面に家が点在し、集落一面に畑が広がっていましたが、今では多くが山林となってしまい、千町地区から望むとわずかの畑と家が数軒見えるだけの集落となっています。
 地区の氏神さん(天満宮)も平成20年4月に荒川の八幡神社に合祀されました。
 この集落へは、国道194号の追門橋付近から山を真上に登るか、 荒川の下分集落から山の中腹を通って行くか、どちらにしても 車の入らない静かな集落でした。
 下分から李へ行く途中の李峠には、半鐘が吊るされていましたが、昭和から平成に移る頃になくなりました。古老の話によると、戦時中、峠に人が住んでいて、その鐘は空襲警報や火災などの危険を荒川の住民に知らせる手段として使われたそうです。
◎菖蒲(しょうぶ)
菖蒲集落に残る石垣  李の奥にあった集落です。昭和23年の地図を見ると、標高で400mを超えた山中に、5軒程度の民家が点在しています。山奥にもかかわらず、たくさんの石積みの耕作地があり、昔はずいぶん開けていたようです。李から菖蒲集落へ向かう道は、今ではほとんど人が通らないからか、草木が生い茂り、木々が倒れかかっているところもあり、時代の流れを感じます。菖蒲集落跡に着くと棚田・畑の跡、神社跡、集落跡などが残っています。
 建物は既に取り壊されていて、どこに家屋敷があったのかわかりにくくなっていますが、そこには人々が生活していた痕跡がたくさん残っています。
 かつての集落も、今では木々に覆われ、すべてが山林となっているため、集落跡に行かないと、どこに集落があったのかわからない状況になっています。集落跡からは、千町の棚田を真横から望むことができます。
 ◎太平(おおなる)西、東 
 東宮から市道川西線を車で登り、かなり山の尾根に近づいたところに傾斜がゆるやかで開けた集落が見えてきます。
「なる」は、平坦地を意味します。下の国道から見上げても、なかなかわかりにくい集落です。山の中腹に大きく広がった平坦地から「おおなる(太平)」と名付けられたと思われます。
 昭和40年代後半に林道が到達するまでは、車の入らない集落でした。この荒川林道は、現在市道となっています。
 かつては集落全体に棚田や段々畑が広がっていましたが、今はかなりの部分が耕作放棄地になってしまっています。また、集落が広がっていたところで、今は山林になっているところも少なからずあります。
 集落からは、黒森山、沓掛山、笹ヶ峰、寒風山が望め、はるか下に西条市街地が広がり、すばらしく眺めのよいところです。
 かつては、たくさんの人が住んでいましたが、過疎化が進み、たいへんさみしい集落となりました。
◎下分(しもぶん)
 大平の下ということで、ついた名前と思われます。
 荒川八幡神社、大福寺があり、昭和48年までは、荒川小学校もあり、学校から少し上ったところには、加茂農協の下分支所がありました。かつては荒川地区の中心として栄え賑わいをみせていました。
 私が小学校の頃は、多くの畑が広がっていて、たくさんの住民が暮らしていました。かつて神社の神輿を担ぎあげていた河ケ平からの歩道は、平成16年の台風災害で崩落したままです。
 荒川八幡神社の「なぶりこ」は、この下分集落の子どもたちで代々受け継がれてきました。大福寺の横には、地域の人たちの集会所である「青年くらぶ」があり、お祭りが近くなると太鼓を練習する音が山中に響いていたものです。
 学校がなくなった頃から、地区を離れる人があいつぎ、現在では大福寺も含めて数人の寂しい集落になってしまいました。
◎河ケ平(こがなる)上、下 
 昔、山の中腹の土佐街道が賑わっていた頃は、当時の人がこの集落を見下ろして「狸の巣」と呼んでいたそうです。
 その当時は、加茂地区の主要街道からはずいぶんかけ離れた地域でした。
 谷川に沿って、平坦地が広がり民家が点在していています。
「河(かわ)」の近くの平坦地(なる)という意味でついた名前でしょうか。
 昔は、数戸の民家と棚田が広がっているだけの集落でしたが、昭和48年に加茂小学校が新設され、平成7年に閉校になるとその跡地に公民館が移転し、郵便局も千町から移転されて、加茂の中では賑やかな地区となりました。
 地元の人は、河ケ平を「こわなる」と呼んでいますが、正式には「こがなる」と言います。金子備後守元宅とその家臣36人を祀っている「花の木さん」がある集落です。
◎東宮(とうぐう)
 大保木にまつられていた東宮神社が、洪水のときに流されて、ここに流れ着いたことから この地を「東宮」と呼ぶようになったと言われています。 戦前は住居があり、昭和27年からは住友共同電力株式会社兎之山発電所の社宅が建っていました。現在(平成29年12月現在)では、その社宅跡を借り受けて数人の住民が住んでいます。
 加茂村と西条市の境にあった集落で、今でもその境には「村境のお地蔵さん」が祀られています。東宮にはもうひとつお地蔵さんがあり、昔この地に架かっていた土佐街道へ通じる橋の両側にあり、守り地蔵として祀られていました。時代の変貌の影響を受けて、今は別の場所に移されています。
 流れ着いた神社をここに祀り、「東宮神社」として新たに祠を建立しました。荒川八幡神社の大祭には、御旅所の一つとして、神主が祝詞を上げ獅子舞を舞っています。

◎投藪(なげやぶ) 八之川の北側の山向かいにあった集落です。昭和40年頃までは人が住んでいましたが、現在は廃村になっています。
◎その他の集落(廃村) 新田石(しでいし)、新田石向(しでいしむかい)、新田、横畑(よこはた)、鍛冶屋谷(かじやたに)、森相、日浦、門平(もんなる)
【千町地区】
 地名の起こりは、山の傾斜地に開墾された田畑が千町(せんちょう=約1000ヘクタール) もあろうかと思われるほど広いところから名付けられたと言われています。
 標高150mから500mの間にみごとな棚田の石垣が広がっています。 山腹のいたるところに湧水があり、その水を利用して昔から稲作がおこなわれてきました。戦国時代、土佐から山を越えてこの地に土着した伊東氏により開発されたと伝えられています。
 
先人が苦労して、60haの広さで2,500枚以上を開拓した石積みの棚田でしたが、昭和40年代からの過疎化、高齢化により耕作放棄地が目立つようになり、今ではかつての景観は見られなくなってしまいました。
 集落の背後には、櫛ケ峰(1112m)がどっしりとそびえており、千町地区のシンボルとなっています。

◎晩茶(ばんじゃ)
 明治23年加茂村誕生以来戦前まで村役場があった地区で、加茂村の中心的な存在の地域でした。
 明治34年には加茂郵便局が建設されましたが、平成13年に河ケ平上に移りました。郵便局移転後も近年までそのモダンな建物が残っていましたが、現在は取り壊されています。
 斜面を利用して、左写真のような細長い田んぼがあり、独特の風景をしていましたが、今は耕作されていません。平坦なところが少ないため、それぞれが石垣を積み、工夫をして家を建てています。
 明治16年に西条の平坦部から高知県へ向かう「土佐街道」である「筏津新道(歩道)」が開通し、この集落を通り、この地に道安全を祈願してお地蔵さんも祀られました。
 明治時代には、人々の往来も多く、馬の背に荷物を乗せて、馬子歌やシャンシャンとなる鈴の音が聞こえてきて、とても賑やかだったとのことです。

 
◎岡(おか)
 千町集落の一番低いところに位置する集落です。かつては、国道からこの集落まで棚田が階段状に続き、一面の田圃が見渡せましたが、今ではほとんどが耕作放棄地になっていて、かなりの部分が山林になっています。この集落から下あたりを下千町(しもせんじょう)と呼んでいます。

国道194号から岡集落まで続く棚田(平成18年撮影)
◎久保(くぼ)
 千町集落の中腹のなだらかな斜面に田園風景が広がっている地区です。集落で唯一棚田の景観が残るところですが、棚田も多くが畑になってきています。集落には、ハゼの大木で造られた木製の灯篭があり、集落のシンボル的存在になっています。

千町の棚田のライトアップ(出典:加茂公民館だより)
◎御代地(みよち)
  千町の氏神さん「高智神社」へと続く道の周辺にある集落です。「御代地(みよち)」という地名は、高知神社に関係する地名であろうと思われます。高知神社は、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)を主な祭神とした神社です。御代(みよ)とは、神や天皇の御時勢を表す言葉で、仲哀天皇などをご祭神とした神社が鎮座する土地ということで、御代地と呼ばれるようになったのでしょうか?近くに「天皇の木」と呼ばれるところがあり、仲哀天皇がこの地を訪れ、腰をおろされたという平らな大岩があるという伝説も残っています。一方で、御代とは、峰が転じた言葉であり、千町の中でも峰になった所という意味もあるのではないかとも言われています。かつては多くの民家がありましたが、現在では1軒1人のさみしい集落になってしまいました。
◎土居(どい)
 千町の開拓者「伊東近江守祐晴」を祀る神近江神社のある集落です。地域の人からは土居平(どいなる)と呼ばれていて、山の中腹に広い平坦地が広がっているところです。
 集落には、灌漑用の池がありますが、現在は使われなくなっており、沼のようになっています。
 地区の近江神社にある石碑には、「近江神社由来記」として次のような記述があります。
「近江守は重臣六十余人を引き連れ繁多軍中村を出陣・・・神戸村の桜の峠に来り遥かに高峠の石川備中守の居城を望んだ折柄、高峠城は時既に火煙天に沖し落城を思わせていた。・・・石川備中守討ち死にを聞き・・・一族と此所を開き再起に日を待つ事に決意し、此地は地味肥に田畑を開拓せば約千町歩得られんと、地名を千町と唱えたる起こり、総べて古豪の住まいする処を、土居と称する習わしを採り今の土居に住すると云うなり。天正十三年三月の事である。」
◎宮之首(みやのくび)
 この集落の名前も高智神社に関係する名前で、宮(高智神社)付近のくびれた所というところからついた名前であると言われています。
(千町高智神社の由来)
 約1200年の歴史があると言われている神社で、 高智明神、古森明神、妙見社、幸神(さいのかみ)としてまつられ ていたものを合祀した神社です。
 明治4年までは、「高知神社」と呼ばれていましたが、神社庁へ「高智神社」と登録されたため、以後は「高智神社」と呼ばれるようになりました。 御祭神は、応神天皇、神功皇后 外十柱の祭神です。高智神社の秋の祭礼は、毎年10月の第1日曜日に行われています。
◎中屋(なかや) ◎中谷(なかたに)
 どちらも、 千町地区の一番上部に位置する集落です。市道を登っていくと、中谷集落から上が、藤之石本郷集落となります。
 千町集落と藤之石本郷集落の境付近を田尻(たじり)と呼んでいますが、これはこれから上には田はなく、畑になっており、田のある最後(尻)であるところから名づけられたと思われます。


田尻で行われていた「千町の獅子舞」
◎その他の集落(廃村) 下千町(しもせんじょう)、松尾、堂ノ元、日浦、中畝、丸池、田尻、西郷、沼田、猪ノ向、赤滝
【藤之石地区】
◎藤之石本郷(ふじのいしほんごう)
 応神天皇をまつる藤咲神社の藤の大木が、境内の大石にからんで他では見られない変わった様子をしていたことから、この地名がついたと言われています。千町地区の上部標高500mから550mにかけて集落があります。千町地区と違い湧水が1ヶ所しかなく、水に恵まれないため、昔から畑作が中心の集落です。
 昭和30年代から冷涼な気候を利用して、高冷地野菜の栽培が行われるようになりました。昭和50年代になりマッシュルームの栽培も行われていましたが、今では高齢者ばかりの集落となってしまいました。
 千町集落とはまた違った景観で、昭和の日本という感じの風景です。ちょうど西側の山の斜面には荒川大平集落が望めます。標高が高いので、西条市内の集落では、日の入りが最も遅い集落でもあります。「おんびき踊り」や「餅つき音頭」などの郷土芸能が伝わっていましたが、過疎化とともに伝承する人もいなくなり、行われなくなりました。
◎吉居(よしい)
 国道194号から4キロ離れた集落で、不便な集落でしたが、昭和39年に下津池から林道が到達しました。
 地元では、「よし」とも呼ばれています。明治、大正年間は、奥地の国有林に依存した20数戸の製炭集落でした。木炭の移出先は別子銅山であり笹ヶ峰の下の宿(しゅく)をへて別子山の中七番へと駄馬で運ばれました。大正中期以降は、木炭は千町を経由して駄馬で西条へと搬出されるようになりました。製炭以外では、明治年間に寸太(すだ・薪材)流しが盛んに行われ、重要な現金収入源となっていました。水田がない吉居集落では、食料は焼畑耕作により賄われていました。昭和47年に分校が加茂小学校に統合されたのを契機に離村が続出し、現在は畑をつくりに市街地から元地区の人達がかよっているようです。
 国道から車でかなり入り込んだところにある集落で、梅の花の咲く季節に訪れると桃源郷のようです。
◎水無(みずなし)
 水無という地名がついたほど、水の少ない地域でした。 昭和10年の山火事によって類焼し、以降1戸の寒村となっていましたが昭和 40年頃に廃村になりました。
 現在では集落があった形跡はほとんどなく、山中の杉木立の中に石垣と貴布祢神社 の鳥居が残っている程度です。


山中に残る貴布祢神社の鳥居
およそ8000年ほど前、地殻変動で瀬戸内海ができた頃、加茂地区を流れる谷川に3つの大きな淵(池)ができました。一番上の淵を「川来須」、真ん中の淵を「中の池」、一番下の淵を「下津池」と呼んでいました。過去のたび重なる風水害によって土砂が流出し、現在では淵は埋まってしまいましたが、当時の地名はそのまま現代まで残っています。
◎下津池(しもついけ)
 山の端が川の両岸から出ていて、上流から流れてくる水を囲みせきとめて 池になっていましたが、洪水のたびにだんだんと崩れて、下に流れていったと言われています。 川来須を第1のたまりとし、次を中の池、第3を下津池と名付けられました。
 下津池には蛇が住むといわれる深い淵があり、神秘的な雰囲気を漂わせています。この淵を止呂淵と言い、さまざまな伝説が残っています。かつては、深い淵でしたが、昭和50年代の台風による洪水で淵が埋まってしまい、今では浅い淵となりました。
 下津池にも千町地区と比べると小規模ですが、棚田が広がっています。千町と比べて耕作放棄地が少く、所々に獣害除けのためか、マネキンの人形がおいてあります。
 集落からは、高知県境の寒風山を望むことができます。
 また、止呂峡に架かる止呂橋が美しい景観をつくっています。特に秋の紅葉の頃は絶景です。
◎風透(かざすき)
 下津池の上部に位置する集落です。
 風透には「うすぐも姫」の伝説がある大小の風穴があり、夏は冷たく冬は暖かい風が吹き出しています。風の通りの よい所としてこの名前がついたと言われています。集落には実際に「うすぐも姫」のお墓があります。
 左の棚田の中に集落がある写真は、昭和60年頃の写真で、今ではこの棚田は畑になっています。画面中央に止呂橋が見えています。


風透にある風穴(かざあな)
◎中之池(なかのいけ)上、下
 大昔に3つあった淵の真ん中であるため、この名前がつきました。集落の入り口には、赤い「中之池橋」があり、地元の人はこの橋を「赤橋」と呼び、中之池集落のシンボルとなっています。地区の中には、かつての国道が大きくSの字に曲がって通っています。中之池小学校跡には、しだれざくらの大木があり、春には見事な花を咲かせます。

中之池小学校跡地のしだれ桜
     中之池集落(昭和58年・1分4秒)
◎黒代(くろたい)

 中之池集落の上部にある集落です。車道は集落の上側にあり、集落の中は徒歩で上り下りしなければなりません。斜面に民家が点在しています。ここからは大樽の滝が正面に見えます。
 黒代の黒は涅(クリ=黒い土の意味)に通じ、「泥土・湿地」を意味するのか、又は暗いに通じ、「日陰地」を意味するものか?代は、シロと読み、丘上や山腹の平坦地を示すことから、「山腹の平坦な湿地帯」という意味だろうか?(西條史談第52号加茂の地名についての一考察による。)

                 大樽の滝

◎川来須(かわぐるす)

 基安集落が廃村となり、現在では、加茂地区最奥の集落となっています。集落の中ほどを国道が通っており、国道を挟んで民家が並んでいました。しかし、国道の拡張工事により民家が移転し、現在(令和2年7月現在)では1軒(2人)のみが住むさみしい集落となっています。
 川来須は、加茂川の支流の谷川に大保子谷、竿谷、桂谷、主谷が集まった所で、鳥が巣に集まるのと同じように、谷川が集まる所(巣)としてこの名前がついたと言われています。
 川来須は、新居鉱山の華やかな頃は賑やかな集落だったようです。 酒屋、質屋、宿屋、簡易劇場まであり、川の向こう側にも 建物がずらりと並んでいました。
 当時、川の両岸にはたくさんの田畑があり、大勢の村人が鉱山で働いていました。

◎基安(もとやす)

 加茂地区で最も奥に、そして最も標高の高いところにあった集落です。
 基安鉱山
最盛期の昭和31年には、72戸の鉱山集落があり、500人あまりが生活していました。集落には、配給所、浴場、診療所、学校(中之池小学校基安分校)等の施設があり賑わっていましたが、昭和47年の鉱山の閉山とともに建物は取り壊されてしまいました。しかし、現在でも当時の生活の痕跡がたくさん残っています。
 平坦なところが少なく、人工的に鉄骨で平坦部を造り広げた分校の運動場、その運動場に残るバックネット、社宅や工場のかまどの跡、ガスボンベ、一升瓶、羽釜にストーブ、そして索道のワイヤー、滑車などあげればきりがありません。向かいの山の斜面には、すべて石でふさがれてはいますが、鉱山の坑口がたくさん残っています。

◎小屋峯(こやみね) 戦後間もない頃は8軒住んでいましたが、現在は廃村になっています。
◎八幡 現在は廃村になっています。
◎その他の集落(廃村) 八窪、宮ノ下、野地、枝折(しおり)、出合、上棚、勘蔵、カナメ、吉居向


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