出典:加茂公民館だより(平成26年3月号)
 加茂の加茂川をなぜ「谷川」と言うのか

 「谷川」は、加茂地区南の県境の笹ヶ峰から瓶ヶ森迄の年間雨量2800o位の多雨地を源流にして、地区内の沢谷の水を集めた加茂の入口の東宮迄の川ですが、いつから「谷川」と言う単純な名称になったか歴史を調査しました。

 西暦809年(大同4年)に、福武から神戸までを新居郡賀茂郷と決めた時に、川の名称も「賀茂川」と決めましたが、後年文字表記が『賀茂』から『加茂』に変わりました。

 西暦1842年(天保13年)に西条藩が発行した「西条誌」には藩内の村のことを書いてありますが、藤野石山村の記述の中に「下津池・中之池は、山の両尻がくっついていて上から流れてくる水をせき止めて池になっていたが、洪水のたびに水が溢れて山尻が崩壊し、急流の川になったのが加茂川である。」と書いています。

 同じ西条誌の東之川山村の記述の中に「東之川は瓶ヶ森を源流とし西之川で合流し小口に流れて加茂川となる」と書いていますので、江戸時代は、東宮から2つに分かれている加茂川は両方とも加茂川と記述しています。

西暦1889年(明治22年)に私どもの加茂は3村(荒川山・千町山・藤之石山)に分かれておりましたが、合併して賀茂郷と加茂川の名称を引用し『加茂村』と決めました。

 旧西条市が発行した「西条市誌」の記述に「西暦1908年(明治41年)に加茂川と吉居川の水を利用し水力発電所の設置を下津池に計画して、西暦1914年(大正3年)に完成した」と書いていますので、この時も加茂の川は加茂川でした。

 ところが、西暦1962年(昭和37年)に、西条から高知に至る道路を、国へ2級国道に申請する時の路線図作成に際して、加茂川の東宮より西(石鎚山側)を本流の加茂川として、加茂の方の東を支流にした時に川の名称を決める必要がありまして、単純な名称の「谷川」と言う名前を付けて国へ書類を提出してから「谷川」に決定したと考えます。

昭和30年代前半の高知県境付近の加茂地区の地図です。
旧寒風山トンネルの下には、基安鉱山(黄色で囲んだ部分)があります。この地図をみると、
加茂地区を流れる川には、谷川ではなくて、加茂川(赤色で囲んだ部分)という名称がつけられています。
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