加茂川林業
加茂川流域の山林地帯は、黒色片岩または緑色片岩の肥沃な林地で樹木 の生育に適し、古くから加茂川林業地帯として栄えてきました。
産業構造の変革のあおりを受け、今日では森林資源への依存度は下がって いますが、加茂地区の住民の生活の糧であった加茂川林業の歴史を紹介します。
杉の美林(荒川地区)

1.加茂川林業の生い立ち

加茂川林業のはじまりは明かではありません。
豊臣秀頼が徳川家康の勧めにより再建することになった大仏殿造営工事に 石鎚山の巨材を運んだことが、前神寺の旧記や徳蔵寺の日記などに見られます。
本格的に林業活動がはじまったのは、江戸時代、第二次西条藩(寛文10年)に なってからのようです。西条藩では、「お山方」「山目付」「山廻り」な どの職制を定めていました。

西条藩の宗藩は紀州家で、その林政に従い山林の保護育成がなされました。
また、スギ、ヒノキ、クスなどの奨励ばかりでなく、ハゼ、コウゾ、ミツマタ、 茶、松茸などの特殊林産物にも力を入れました。

この点は、久万林業が紀州の井部栄範(いべえいはん)によって、紀州吉野林業の影響を受けた のと似ています。

江戸時代に育成された森林も明治になって乱伐されましたが、西条営林署 の前身である円山苗圃の経営が行われ、造林技術や、伐木造材技術の向上 など、加茂川林業の発展に大きな影響を及ぼしました。

明治30年には、森林法が公布され、国運の伸長とともに木材需要 が増加し、林業生産に力を入れるようになりました。
荒廃した民有林も次第に復旧し、愛媛県の代表的林業地久万林業と相互に 影響しあい、林業地を形成し「加茂川林業」と総称されるようになって きました。

2.植林のはじまり

東之川・御樽の巨大なスギの切り株(昭和56年撮影) 加茂川林業地は、人工造林400年と伝えられる森林もあるように 一部の地域では、すでに江戸時代の初期から植林が試みられた ようです。
西条藩は、みずから植林に力をいれて、加茂川流域の搬出の便のいいところ にスギ、ヒノキを植林したものと思われます。

現在、これを裏付ける事実はあまり残っていませんが、 西条市東の川・御樽(おたる)の工藤勅重(ときしげ)氏所有の山林にある スギの切り株数十本は植林木と考えられ、切り株から樹齢を推定してみても 250年はくだらないと思われます。

このことから、植林が江戸時代においてすでに試みられた事の確証がで きそうです。

3.焼畑造林

加茂川林業地帯において、造林の進展を支えてきたものとして、焼畑 耕作による植林を無視することはできません。

加茂地区の人は、常畑による食糧の自給をできる人はほとんどなく 地主から土地を借りて焼畑耕作を行っていた人が多かったようです。

荒川地区の例をあげると、土地を焼いた後、1年目には、そば、あわ、もち米、あずきを植え、 1〜2年裁培した後、借りた土地の代償として、スギ、みつまたを植えました。
スギの苗木は、地主が提供しました。
収穫した食物は借地人のものとなり、自給自足の糧となりました。
このような焼畑耕作は、村内各地で行われ、各地で植林が進展しました。

4.木材の搬出

加茂川流域の山林地帯は、地形が非常に急峻で、その険しい山中に 立ち入り木材を搬出するため、人々は大変な苦労をしました。 ここでは、加茂川林業地帯の木材の搬出方法の変遷を調べてみたいと 思います。

◎人肩による搬出

木挽き鋸と斧(伊藤鶴雄氏所有・昭和57年撮影) 加茂地区の人々は林業を生活の糧にしていました。 それ故、木材の搬出も人力により行う場合も多く、それにより現金 収入を得ていたようです。
木材を山元から土場へ搬出する方法としては、人肩による搬出、 負い子に材木を乗せて運ぶ、牛馬で引っ張り出す、などの方法が ありました。
搬出しにくい大きな木材は、木挽き鋸を使い2つ割、4つ割、板材等 に挽き割って搬出をしました。 木挽きさんの仕事は、繊細な技術と忍耐力が必要な根気のいる仕事 だったようです。

 ⇒【木挽き唄】

木材の搬出が機械化され、どんな山奥でもどんな大木でも搬出 が可能となった現在では、人力での搬出は姿を消してしまいました。


大正3年2月に下津池に発電所が建設されました。 この発電所の建設のための資材と発電機の搬入用として 愛媛水力電気株式会社から道路の新設計画が発表され、 加茂村も後押ししましたが、村民の反対にあい実現 しませんでした。
反対の第1の理由は、道路がつくと材木を背負う仕事が なくなるとうものでした。

◎木材の流送

加茂地区の中央を南北に流れている加茂川は、 絶好の木材搬出の手段でした。
しかし、川が浅瀬、急流のうえに岩石が多いので、木材の搬 出には不利な条件が多かったようです。
加茂地区における木流しの始まりは明かではありませんが、江戸時代の初めには もうすでに木材を流していたようです。

※西条市の加茂川は水が少なく、とても木材の流送に適しているとは思えません。 古老の話によると、木流しをさかんに行っていた頃は山には雑木が多く、 現在と比べて、川の水も多かったようです。


木流し唄(木材を流すときに歌われていた唄です。)

(木流しの方法)

☆集材

木流しのできる川までの間は、昔は人の肩あるいは負い縄による人 力運搬、もしくは駄馬による運搬を行っていました。
しかし、木馬道ができると木馬で、また索道の発明により運搬作業はかなり 容易になりました。

☆木流しの時期

木流しは、年中できるものではなく、真冬は上流が凍り流材には不適当 なので、春から夏にかけて流しました。
ただ夏の場合、台風による洪水で海まで流されてしまうこともしばしば ありました。

☆木流しの量

木流しの量は、多いときと少ないときではだいぶ格差がありましたが、一度 に五千本から七千本を流したといわれています。
流木を見分ける為に、材木の木口に刻印を押して所有を明らかにしていた ようです。

☆木流しの準備

川岸あるいは土場に積み上げられた木材は、雨が降り水量がふえるのを待って流 しました。
流すときは、人夫を少ないときで14〜15人、多いときで30人ほ どやといました。
奥地の土場から河口の土場まで流すのに何日もかかったので、 途中で水がひき流材ができなくなったときなどは、川岸などにあげて次の大水 を待ちました。(あげ木)

☆木流しの要領

まずは、ミトックリという経験者が流しやすいように順序をつけ、川の要所要所 にナカミト(人夫)を配置し、カワザライがついて流木をせめ(誘導すること) ながら流しました。
木材はそれぞれ2m、3m、4mの長さに伐ったものを管木で流しましたが、2mの ものが多かったようです。

☆土場揚げ

土場揚げは人夫の責任でした。それは各地でいろいろな方法がとられていましたが、 加茂村の荒川地区では丸太を3本使った「サンキチ」と呼ばれる土台を、石のおも しによって川の中にいくつか立てて一種の堤防のようなものをつくり、流れてきた 木材を誘導して陸揚げするという方法がとられました。

加茂川林業地において、江戸時代の初期から木材搬出の手段として行われてきた木 流しも、森林軌道の完成(昭和5年)により次第に行われなくなり、昭和20年頃 からまったく行われなくなりました。
   

◎木馬道

木材の搬出に使われた木馬
木馬は、人肩にかわる木流しの集材方法として古くから用いられてきました。
荒川の菖蒲峠(しょうぶとうげ)から李(すもも)を通り東宮(とうぐう) にいたる道は明治の初めには既にできていて、薪や用材を盛んに搬出してい ました。

この道は、東之川鉱山の鉱石を搬出するために、明治以前に造られたもので したが、しばらくして木馬道としても利用されるようになりました。
丸野地区では、昭和6年頃から木馬道がつくられ始めましたが、「なかもち」 (肩に材木を乗せて運搬すること。) ができなくなるということで、もめるところもありました。

戦前期には各地に木馬道ができ、木材だけでなくいろいろなものの運搬が盛 んにおこなわれていました。

☆木馬道の構造

木馬道は幅が1.5mぐらいで、「さな」と呼ばれる雑木をたくさん並べて ありました。
この上を木馬が進むわけですが、傾斜が緩やかで摩擦が大きいときは、 「さな」と木馬にたね油をぬり、動かしやすくしました。

☆木馬の構造
 

木馬は幅が60〜70cm、長さが約2mの「そり」のようなものです。
杉で作られていたが、底には2〜3cmの厚さのかしの木を打ち付けて いました。

☆木馬による木材搬出作業

木馬による木材搬出作業は、家族連れまたは夫婦、親子ですることが多かった ようです。
朝早くから(荒川地区では、朝の2時頃からでかけることもありました) 提灯を持ち、木馬をかついで現場へ行き、人肩により集材し、荷造りをして 木馬を引いて帰るという作業でした。
一日に一往復程するとその日の仕事が終わりました。

木馬を動かすときは、一人が前で引っ張り、もう一人が後ろから押し、 梶棒として一本だけ長い丸太を積んでいました。

木流しの集材方法として長い間利用されてきた木馬も、各地の道路開設 や索道の発達によりしだいにその機能をはたさなくなり、昭和20年を 過ぎる頃になるとまったく見ることができなくなってしまいました。

◎索道

☆「とばし」による木材搬出

大正時代「とばし」に利用された滑車(昭和56年撮影)

索による木材搬出が、いつ頃から行われていたかは明かではありませんが、 明治40年頃、大生院村の伊藤牛蔵氏(明治6年生まれ)が、現新 居浜市の角野や大野山で索道による木材の搬出をしていたという 事実があります。

尾根筋の適当な場所から谷筋の道路まで主索(主とし て鉄線)を張り、簡単な搬器に木材を吊り、自重により主索上をす べらせるというもので、ブレーキもなく、いたって簡単なものでした。
これは「とばし」と呼ばれていました。
主索の一方は立木、根株、杭などに 結んで固定し、もう一方は丸太胴巻きで巻いて張り、上下の傾斜角 は15゜〜20゜位の急勾配を持たせるようにしていたようです。

ぶつかるときの衝撃を弱めるため、下には木の枝や畳のぼろをおい ていましたが、それでもかなりの衝撃だったようです。
この装置は構造が簡単であり、 経費があまりかからないという利点はありましたが、急勾配を自重で滑走す るため、滑走速度が一定せず、長距離や緩傾斜の所では利用できませんでした。
ぶつかるときの衝撃の割には木材の損傷は少なかったようですが、 主索の質が悪く切れることもしばしばであったようです。
また、滑車が主索 にくい込むと、索の上を人がつたわって降りていき、はずすという具合で、 たいへん危険な作業を伴っていました。
「とばし」による木材搬出作業は、搬出量 も限られていて、一回滑らせるとその滑車(普通500個以上) をかついで山の上まで行かなければならなかったので能率もたいへん悪かった ようです。

この方法は、大正時代にはいり、加茂村にも導入されました。
元西条市森林組合組合長故工藤政義氏(明治33年生まれ)が若いとき (大正初期)加茂村・河ケ平で伊藤牛蔵氏(明治6年生まれ)や 上野七四郎氏(明治5年生まれ)が「とばし」による木材搬出作業 をしていたのを覚えているというお話を伺いました。

昔から人肩や木馬によってのみ行われていた木材搬出作業でしたので、 この方法は当時としては画期的なものだったようです。
「とばし」はその後村内各地に広がり、大保木村へも広がっていきました。
加茂川林業地における軽便索道は、まずこの「とばし」に始まり、その後「つる べ式索道」へと移行していきました。

☆つるべ式索道

「つるべ式索道」は、主索を二本平行に張り、搬器には曳き索を取り付けて、 それを滑車に掛け、井戸のつるべのようにして搬出する索道です。

荷をつけた搬器が下がれば、からの搬器が上がってくるといった具合で これを交互に繰り返して作業を行いました。

この索道が導入された直接の原因は、明治22年、住友鉱山(株)が西之 川の大森鉱山の銅鉱石を加茂村下津池(しもついけ)をへて角野町端出場 まで索道搬出を開始したことによるといわれていますが、これを見学した人が、 大正4年、加茂村河ケ平(こがなる)に360間の索道を開設し、 1日2,500貫の木材を搬出したことによるといわれています。

それ以後、住友鉱山東亜工業の索道払い下げを受けたことなどにより、 昭和初期には木材の索道搬出は一般的となり、加茂地区の各地 に常設索道ができました。

大正初期の「とばし」に始まり、その後「とばし」と「つるべ式」を用途 によって使い分けていた時代もありましたが、昭和になると「つるべ式」になり、 しばらくして発動機をつけた索道が普及し、木材搬出がきわめて容易にな りました。

◎森林軌道

☆日本窒素肥料株式会社による軌道の新設

大正2年、大阪に本社のある日本窒素肥料株式会社が、千町(せんじょう)鉱山の 鉱石を運搬する目的で、神戸村・船形(かんべむら・ふながた)から加茂村八之川まで軌道を新設(大正10年完成)しました。

  ⇒鉱石運搬用軌道の位置図はこちら

この軌道は木材搬出用としては利用されませんでしたが、 このことがその後、加茂村の木材搬出作業に大きな変化をもたらすことに なりました。

当時、加茂村の交通条件はきわめて悪く、山の上層部を土佐街道(西条から 高知へ通じる人のみが通れる道)が 通っているだけで、木馬や索道によって搬出された木材は、流木の便のないかぎりいつまでも川岸に積んでおくというような状態でした。

☆加茂土工森林組合の結成

加茂地区八の川にある軌道改修記念碑 大正の末期になって千町鉱山が閉山したのをきっかけに、この軌道借り受 けによる木材搬出の熱が高まってきました。

このような状況の中で、昭和2年12月24日、村長伊藤善也氏が組合長となり、 軌道の借り受けとその延長を目的とする加茂土工森林組合が結成されました。

土工組合は資金の調達に苦労し、伊藤善也村長はじめ村の 山林所有者が集まって相談の結果、低利資金を借りることになりました。
また、基安(もとやす)鉱山の経営をしていた大阪の東亜工業から、 鉱石運搬を15年間無料にすることと、トロッコの線路鉱夫を基安か ら一人つけるという条件で資金を調達し、そのほか県の補助金や銀行な どからの借入金などでようやくその資金ができました。

軌道敷設工事は昭和3年7月に開始され、約2年後の昭和5年5月18日には神戸村船形から、加茂村川来須(かわぐるす)まで総延長 15.756qに及ぶ軌道が完成しました。

この軌道の開設により、加茂村の木材搬出は以前に比べると かなり容易になりました。

 ⇒加茂地区森林軌道の位置図はこちら

☆森林組合経営の行きづまり。

組合の経営は、しばらくの間は順調でしたが、 低利資金とはいえ何万円ものお金を借りたことや、 日本窒素肥料株式会社に軌道の使用料を払わなければならな いので、四苦八苦の経営をするようになりました。

その後、戦争が激しくなってくると、組合員にも出資金を出す 余裕がなくなり、軌道の使用料さえ払えないような状態になっ てしまいました。
そしてついに、使用料を払わなかったという理由で、 軌道総延長の約3分の2にあたる船形から八の川までのレー ルが取り外されてしまいました。

☆軌道の買い戻しとその後の森林組合経営

当時加茂村では、木材搬出業によって生計をたてている人 が多かったので、軌道の除去は大きな痛手でした。

この危機を乗り切るため、村全体の人が協力して、あの手 、この手をつくし、軌道が敷設されている場所の所有者に 反70銭の負担金を出してもらうことにしました。
その資金でレールを買い戻し、軌道を敷きなおすことができました。

その後、加茂土工森林組合は昭和17年に追補責任組合へと改組され、 組合員の数も増え、軌道運材を中心とした活発な運営をつづけました。

☆森林軌道による林産物の搬出作業

軌道による木材の搬出作業は、下津池(川来須)〜船形間を1 往復で1人役、八之川〜船形間は2往復で1人役でした。

かなりの重労働で、上りと下りのすれ違う場所や時間なども厳密 に決められていて、だれでもできるというものでありませんでした。

トロッコ引きは20〜30人いて、1人1往復で20石ぐらいづつ 搬出していましたが、30〜40石も出す人もいたようです。

軌道の使用料は組合員、非組合員にかかわらず同じで、木材、炭、 「みつまた」など運ぶ品物によって違っていました。
軌道によって船形まで搬出さ れた木材は、馬車やトラックで近くの製材工場へ運ばれました。

軌道運営は、加茂土工森林組合の独占的な管理下にあり、 土工組合はトロ引きの組合だ、などと言われるようになりました。
昭和29年の軌道運材実績は、30万円をこえ、森林組合事業 の66.3%を占め、組合経営の基本財源となりました。

☆トロッコのしくみ

加茂地区で使われたものは、幅が約1m40p、 長さが1m50〜60pぐらいの大きさでした。

鉱石運搬のときは箱をつけますが、木材搬出の場合は箱をのけ、 トロッコを2つないし4つ連結して運搬しました。

ブレーキをかけながら急勾配を下り、帰りは馬で引いて上がりました。
木の重さを計るところを「かんかん場」と言い、船形にありましたがその後 下河ケ平に移って、トロッコごと木材の重さをはかり、そこから馬車に積 んで運ばれました。

☆軌道の除去

今はなき加茂地区森林軌道(昭和30年頃)

昭和30年頃になると、軌道を利用して搬出されていた基安鉱山 の鉱石は、住友・立川の方へ索道で搬出されるようになりました。

また川来須の新居鉱山が閉山となり、軌道の利用は林産物のみに限定 されるようになりました。

そのような状況の中で、加茂村の人々にとって 悲願であった予土産業開発道路(西条〜高知間)の建設が着々と進み、 軌道の利用度は次第に低くなり、トラック運材へと移行していく中で、 軌道は次々と除去され、昭和32年には完全になくなってしまいました。

予土産業開発道路は、その後、国道194号線となり、 昭和39年には寒風山トンネルが完成し、西条〜高知間が初めて車道で結ばれました。

国道194号線は、その後順次拡張工事が進められて、平成11年4月17日には新寒風山トンネルが完成し、西条〜高知間がぐっと近くなりました。


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