西条藩の林野政策

 第二次西条藩は、寛文10年(1670年)紀州藩の支藩として松平頼純が三万石をもって封ぜられたことに始まる。藩主の松平氏は定府(江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕えることをいう。)で常に江戸に在住し、在所の政事はすべて留守居の者に託していた。
@西条藩の林政

 当時の藩有自然林は、千古の林相を呈していて、川水による流木便のない限り全く利用されず、「入らず山」となっている所が多かった。西条藩は、そのような山林でも山奉行をして奥地開発に努めさすなど盛んに施行を行った。
藩は、領内の森林の状況によって計画を立て、自給自足を第一の眼目として余剰を領外に移出した。西条藩根元帳によると、西条藩には、「お山方」「山奉行」「お手山方」「山目付」「山廻り」などの職制があったことがわかる。
A山林の保護

 西条藩は、領内林野の樹種、大小、員数などを登録するとともに、平地にある老木、大樹などは「お帳付木」として民家個人の屋敷内にあるものの一本までも、明らかにしてあった。民有林では許可なく伐採することが禁止され、紀州藩の林政に従い、杉、桧、けやき、かや、くすのき、松の6種類の木は停止木とされた。
B山税

 西条藩では、民衆の義務として藩有林の保護にあたらせ、山火事は近隣の住民に消防の責任を負わせた。そして民衆所有山林には山税を納める義務を設けた。山税の種類には、山年貢、山手米、山手銭、留山冥加銀、松山運上、炭運上、松・杉・ひのき運上、藪運上、野山運上などがあった。
C山林の経営主体

 藩政時代の山林を経営主体によって大別すると、藩が直轄経営する「お林山」、藩が百姓に経営を委託した「お預山」、百姓が藩から高請けして経営する「高請山」、村々の「入会山」があり、この他に百姓個人の「百姓持山」があって、それぞれ営林方式が違っていた。
D営林の実態

 営林の実態を庄屋文書によって見ると、松樹林では実生造林法に従い、盗伐の監視と火災の防止、それから時に枝打ちの手入れも行ったとある。ところが時に御山荒といって柴草刈りに事よせた樹木乱伐者が絶え間なく侵入するので、藩の禁令はしばしば出た。しかし、このような禁令にもかかわらず乱伐、盗伐は後を絶たなかった。

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