棚田と水

千町の谷川と湧き水
 千町集落をふもとから見上げると、山の頂上までまっすぐな斜面のように見えますが、実際に歩いて登っていくと、傾斜の部分と平坦な部分があります。
 このように何段かある平坦部のおかげで、降った雨が一度に下まで流れずに、それぞれの平坦部で少し保たれ、一部が湧き水となって徐々に下へ流れていきます。
 こういう地形の恵みのおかげで湧水が多く水が豊富であること、西向きに開けた斜面であるので日照時間が長いこと、周りを山に囲まれているので台風などの被害が比較的少ないことなどの好条件が揃っていることで、棚田を開くことができたようです。
 
 
千町の棚田遠景(よく見ると山の斜面に平坦な部分があることがわかる。)

谷川の水の利用 
 千町の棚田は、山腹斜面を流れている谷川から水路を掘ったり、竹の樋(とい)を使って水を引いていましたが、土の水路から染み込む水や、竹の樋の継ぎ目から漏れた水が、水を引いている途中の棚田にも水をためる役割をしていました。昭和40年ころからはエスロンパイプによって田に水を引くようになりました。

 1枚の田に水をためると、すぐ下の、あるいは2、3段下の田のギシの根本の部分から染み出した水がたまります。このように、自然条件をうまく利用して、上から下の田へと次々と水をためて、米作りをしていました。

 千町の棚田は、田1枚ごとに谷川から水を引くというやり方ではなかったので、自分の田よりも上段の田が荒れてしまうと、水が染み出してこなくなり、米作りができなくなってしまうし、そうなると下の田にも影響がでることから、谷川に沿って縦一列に並んだ田は、水を利用することに関して一つの運命共同体となっていました。

したがって、隣の田が水不足で困っていたとしても、おいそれとは水を分けることはできず、谷川のどこから水を引き、どの田に入れるかということは、慣例として決まっていました。

水の利用には『水利権』があり、厳しいものがあったようです。


下千町の棚田(田んぼが縦一列に並んでいる。)
 
水不足と雨乞い
 地形の保水機能に恵まれている千町地区ですが、日照りが続き地中に蓄えられている水が染み出してしまえば、湧き水は無くなり谷川や田も干上がってしまいます。
かんがい用のため池が無いため、干ばつのときは、人間の力ではどうにもならず、雨が降るのを待つ以外に方法はありませんでした。

 昔は、干ばつになったときは、雨乞いの習慣がありました。
祈とう師とともに、地区を挙げ大勢の人が笹ケ峰へ出掛け、雨乞いのお祈りをしていました。笹ケ峰の頂上には、口の直径が30cmくらいの雨水がたまっている甕(かめ)がありました。祈とう師が護摩(ごま)をたきながら30分間ほど拝み、次に甕の水を四方へまき散らせて終わります。

 この行事は、昭和10年頃になるとほとんど行われなくなり、戦後、昭和20年代に1度か2度、地区を挙げてではなくて一部の人たちが雨乞いをしましたが、それが最後となったようです。

 エスロンパイプの普及によって、遠くの谷川からも水を引くことができるようになったため、近年では干ばつの被害は、あまり見られなくなりました。
 
棚田に欠かせない水(現在は、谷川からエスロンパイプを使って水を引いている)
(参考文献)愛媛県生涯学習センター『ふるさと愛媛学』調査報告書・愛媛の景観(平成8年度)
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