伊東近江守祐晴による千町の開拓
  

千町地区全景(平成19年撮影)

『千町といわるるまでに耕して、住める村見ゆ谷のむこうに』

景観を愛でながら村人たちの辛苦に満ちた生活の息づかいを感じて詠まれた千町の棚田


【千町の開拓のはじまり】

 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐軍が伊予の国(愛媛県)に攻め入った時、伊東近江守祐晴が、当時土佐(高知県)の長曽我部氏の傘下にあった新居郡の石川備中守の援軍として重臣60余名を従え、予土国境の桑瀬峠を越えて新居郡千町山を経て荒川山桜峠に至ろうとした。しかし、時すでに遅く、高峠城は落城し、石川備中守は討ち死にした。
 近江守一行は、攻めるも引くも成らず、千町の鎌切山南麗に兵を休め、暫し潜んで様子を伺っていたが、幸いにも備中守の一子虎千代丸の土佐落ちと遭遇し、その後衛として土佐への帰国を断念して、この地が、水が豊富で地形も農耕に適している事に着目し、千町を開拓して住む決心をし、千町山土居に住むこととなった。天正13年3月3日であったという。

 それ以来、伊東近江守祐晴とその子孫は、千町の開拓に心血を注ぎ、山の斜面にみごとな段々式水田を作り上げた。近江守は、後に香川県の三谷の郷に移り、天正15年6月28日に亡くなった。近江守が守本尊としていた十一面観音は観音院妙華山誓願寺にまつられている。彼が住んだ土居集落には近江神社があり、伊東氏一族の氏神として祀られ、祭神は伊東近江守祐晴となっている。

 近江守の子孫は、風透、御代地、吉居、荒川山に分かれ、加茂地区の開拓に励んだ。加茂に伊藤氏が多く、その一族郎党というべき人達によって次第に開拓され今日に至ったようである。

 伊東姓の元は、源頼朝時代に先祖が勲功より伊豆の東の地を賜り、その地名を取り伊東姓としたが、近江守から9代目祐義の代、文政12年 (西暦1829年)一族の会議で元祖は藤原の家系ある事から、
伊東を伊藤姓に改め、各所に配した家臣達にも伊藤姓を名乗らせと伝えれられている。

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