加茂のお地蔵さん
さしでのお地蔵さん 【さしで地蔵】
 千町へと向かう市道で、もとの藤之石道との交差点のところにあるお地蔵さん。
 寛政の頃、土佐街道の要所であった桜の峠に、道中安泰の祈願として建てられたもので、明治10年「長瀬道」が出来たために、大畑に移された。
 大正10年頃、森林軌道が新設され、後に予土横断道路となり、「千町河ケ平」の村道が出来たため、人馬の通行が途絶え、大正、昭和の間ひっそりと世の転換を眺めてきた。
 昭和34年、地区の善意の方達により3度目となる現在地に移された。交通安全のまもり地蔵として、いまも香華が絶えない。
【晩茶のお地蔵さん】
 元加茂郵便局があったあたりに祀られている道安全のお地蔵さん。交通安全は車に限られたものではなく、明治16年筏津新道が開通した際に、道安全を祈願して祀られたもの。
 筏津新道は、千町堂の本(地蔵さんの祀られているところ)から筏津橋を渡って下津池の峠にいたる道で、明治時代には、人々の往来が多く、馬の背に荷物を乗せて運び馬子歌やシャンシャンとなる鈴の音が聞こえてきた道で、加茂村唯一の幹線道路だった。
 先祖の遺徳を継承して、盆と正月の縁日には信者が集まって供養の宴をもうけていたが、今ではその道も草木に埋もれお地蔵さんを見つけるのも難しくなってしまっている。
【河ケ平(こがなる)のお地蔵さん】
 もし誤って子供が川で水死したときは、その子供を遊ばせてくれるお地蔵さんだと云われている。
 荒川2号176番地の河淵にある。
 熱病などのときには、三角形の握り飯と自分の年の数ほどの川石を供えると熱病がなおるとも云われている。
 また、耳病に霊験があり、願かけの時は、土器に穴をあけて糸をとおしたものか、竹皮の草履二足、または紅白の前垂かけを備えると良いと云われる。
【東宮(西東宮)のお地蔵さん】
 昔、この地に土佐街道に通じる橋が架かっていて、両袖に守り地蔵として祀られてあったもの。
 西東宮のお地蔵さんは、国道194号線から住友共同電力兎之山発電所へ通じる道を少し下ったところに祀られている。昭和41年、東東宮からこの地に移された。黒瀬ダム工業用水路が完成し、元々祀られていた場所は水没してしまった。イボとりにご利益があると云われている。
 
【東宮(村堺)のお地蔵さん】  
 西東宮のお地蔵さんの対岸の旧加茂村と旧西条市との村境にあった地蔵さん。かつて村境の立石の下にあったので、岩屋のお地蔵さんと呼ばれていた。国道194号線の改修工事で、昭和49年10月にお地蔵さんの上に鉄橋が架かり、その鉄橋のところに移された。
 東宮に祀られていた西東宮のお地蔵さん、村境のお地蔵さんともに時代の変ぼうに伴って影響をうけたお地蔵さんである。 
【石仏(荒川)のお地蔵さん】  
 荒川山石仏甲32番地になべら石のお室(むろ)の中に二体祀られてあるお地蔵さん。昔、なべら石を地蔵尊として祀っていた頃、「ただのなべら石じゃろ。」と言って、その石を川へ投げ込んだところ、石は沈まないで水際に泳ぎ出た。人々は霊験のあることに驚いて、石を元の場所へ担ぎ上げてお祀りしたと云われている。その後、祀っていたお地蔵さんの頭が落ちてなくなり、首なし地蔵を祀っていたが、日清戦争の頃、荒川下分の伊勢吉夫妻が頭を作って元の姿に戻した。そのお地蔵さんともう一体が合祀してある。昭和44年、荒川林道(現在の市道川西線)の改修工事の際に、お地蔵さんを現地に留めるため、以前の荒川道を広げ、この付近の勾配を緩めるという配慮をしたと云われている。 
【八之子谷の芝折れ地蔵】
 荒川八之子川谷丁149番地で、旧八之子谷橋のたもとにあるお地蔵さん。いつの頃からかさだかではないが、戦前まではこのお地蔵さんの前を通るときは、付近の芝を折ってお地蔵さんに供えて行くと帰りの足が軽いと云われていた。また、イボとできものにあらたかで、現在も願かけをする人が多く、お賽銭や供花のたえないお地蔵さんである。
 小屋峰(こやみね)、投藪(なげやぶ)に人家のあった頃は通行人もあり、また八之川の児童が下津池小学校に通学していた昭和47年頃まではバス停もあったが、今は山仕事とか猟に出かける人が通る程度となっている。新しい八之子谷橋が仮設され、現在は旧道の橋のたもとにひっそりと祀られている。
【藤之石の地蔵堂】
 藤之石本郷集落のいちばん上部にある地蔵堂。東宮さんとも、あたご地蔵とも呼ばれている。
 境内には、石段横に六地蔵、上ると石灯篭、こま犬根上がりの桜の古木が門をなし、地蔵さんが祀られたお堂がある。お堂の裏には水谷のお薬師さん、数十段の石段を登ると金刀比羅宮、杉山の大権現が祀られている。
 現在のお堂は、昭和45年に部落民の善意により建てられたもので、その前には文化4年5月に建立されたお堂があった。その前にもこの地にお堂があったものと推測されている。
 この地蔵さんは、火の守り神と云われており、藤之石では昔から失火による火災は出ていない。
【下津池の地蔵堂】
 下津池集落を通る国道194号線沿いにある地蔵堂。境内の手洗い水には明治16年とあるので、かなり前からこの地に建立されていたものと思われる。地域の人がいつも掃除をしているのか、境内はきれいに整えられていた。
 地蔵堂のまわりは一面に棚田が広がっている。下津池・風透集落は、かつて山の斜面全面に棚田や段々畑が広がっていてすばらしい景観をなしていたが、近年休耕田が目立つようになってきた。平成20年まで、下津池小学校(昭和48年閉校)の校舎が残っていたが、老朽化のため取り壊されてしまった。
 ここのお地蔵さんは、「下津池のあたご地蔵さん」と呼ばれ、火災から守ってくれるとの言い伝えがる。昔、地域で大火事があり、中之池、黒代などが被害にあったが、下津池は火災から守られたと言われている。
地蔵堂 【中之池の地蔵堂】
 中之池の地蔵堂は、廃雲龍寺ともいい、堂の中央のお室に地蔵菩薩、左に不動明王、 右に毘沙門が鎮座し、その左のお室に達磨大師、右二つのお室に先手観音、 大日如来が祀られている。「西条誌」によると雲龍寺は、天正13年洪水のため流出し 再建不能になり、その跡地に地蔵堂が建てられたという記述が残っている。雲竜寺は、500年くらい前、藤之石山村(本郷吉居水無黒代中之池川来須下津池風透)の氏寺として天台宗の末寺だったが、 天正13年の洪水のため再建不能となり、氏寺は保国寺(西条市神戸)となって いる。
 地蔵堂には、地区の東西南北に立てるお札の版木と、各家庭に配るお札の 版木、百万辺を繰る大数珠が保管されている。
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