想い出の写真集

☆旧荒川小学校☆

旧荒川小学校(昭和25年)

現在の旧荒川小学校跡地(平成29年)
「荒川小学校」の旧校舎です。大福寺の隣にあった新校舎よりもう少し標高の高いところにありました。学校跡地は畑になっていましたが、今は耕作する人もなく荒れてしまっています。かつてここに学校があった痕跡はなく、運動場から校舎へ上る坂道と、石垣が残っているのみです。

☆千町小学校の正門への坂道☆

正門への坂道(昭和39年)

正門跡への坂道(平成26年)
加茂地区の中では一番児童数の多かった千町小学校。正門への坂道と門柱は今でも残っています。門柱をくぐると左側に二宮金次郎像が残っており、学校跡地を静かに見守ってくれています。

☆千町小学校跡地の二宮金次郎像☆

子どもたちに囲まれた二宮金次郎像(昭和26年)

現在の二宮金次郎像(平成27年)
かつては500人以上が暮らしていたとも言われている千町集落。今では30人弱にまで人口が減ってしまっています。その学校跡地で当時を偲ぶことができるものは、学校の正門跡と元校庭の片隅に残っている二宮金次郎像だけとなっています。学校跡地に残る金次郎は集落の変遷をどんな想いで見守ってきたのでしょうか。

☆国道194号☆

国道を占領したお祭りの人垣(昭和34年)
国道194号(平成11年)
現在の国道194号(平成11年)
現在、加茂地区には2車線の国道194号が中心部を通っています。
道路の改良に伴って交通量も多くなり、11月3日の荒川地方祭の当日には 紅葉狩りの車がひっきりなしに通っています。
昭和40年頃までは、道幅も狭く未舗装で、車もめったに通りませんでした。
写真は、荒川の河ケ平付近で、国道を占領して獅子舞を行っています。 現在では考えられない光景です。

☆河ケ平御神灯☆

河ケ平御神灯(昭和38年)

現在の御神灯(平成11年)
荒川地方祭のメイン会場だった河ケ平御神灯(こがなるごしんとう)です。昔は、道路も未舗装で、お祭りの日にはのぼりが建てられ、 提灯が灯されていました。
国道の改良に伴い、道は舗装され、石垣は、コンクリートのよう壁で覆われ てしまいました。今では、たいへんなつかしい風景です。

☆旧止呂橋☆

旧止呂橋(昭和34年)

現在の止呂橋(平成11年)

旧止呂橋(昭和38年)

現在の止呂橋(平成14年) 
四季折々のすばらしい自然が楽しめる加茂の名所止呂峡にかかる橋です。
現在は、鉄製の橋がかかっていますが、昭和26年に架けられたときは、写真のような木製の吊り 橋でした。
昭和42年に森林組合によって鉄橋に改修されましたが、吊り橋のワイヤーを支えていた コンクリートの支柱はそのまま残されました。

☆森林軌道☆

加茂地区森林軌道(昭和31年)

一部残っている軌道跡(令和2年)
加茂村には、土佐街道と呼ばれる人が通れるだけの道が山の上部にあった だけでした。
大正10年に完成したこの軌道は、千町鉱山の鉱石を搬出するためのものでしたが、その後森林組合により改修・延長され、それまで流送にたよっていた木材の 搬出に画期的な変化をもたらしました。
昭和32年には軌道が完全に除去され、 軌道の跡地は、国道194号になっています。
                       ※森林軌道写真 出典:愛媛の山村(相馬正胤著・昭和38年) 
☆寒風山トンネル☆
工事中(昭和38年)
工事中(昭和38年)
昭和57年
寒風山トンネル(昭和57年)
新寒風山トンネル(平成11年)
新寒風山トンネル(平成11年)
西条市と高知県本川村は、2,000m近くの 四国山地に阻まれているにもかかわらず、昔から峠を越えて 多くの人馬の往来がありました。
近年の車社会が訪れ、車道の開設が急務となり、先人の大変 な努力により、高知県境の標高1,000mを 越える高所に寒風山トンネルが開通しました。
昭和34年に着工しましたが大破砕帯に遭遇し難工事となり、 昭和39年に完成しました。
その後、平成11年には、冬季の凍結のほとんどない 場所に新寒風山トンネルが完成し、高知県がぐっと 近くなりました。

☆基安(もとやす)集落☆

基安集落(昭和35年)

基安集落跡(平成17年)
高知県境、伊予富士の北斜面に加茂地区最奥の集落「基安地区」 がありました。
基安鉱山が盛んに銅鉱石を産出していた頃は、70余戸の 鉱山集落があり、社宅、配給所、浴場、診療所、学校等の 施設で賑わいをみせていました。昭和47年に鉱山が閉山になると、建物は取り壊され、 人々の姿が消えてしまいました。
現在は樹木に覆われ 集落の痕跡はまったくなくなってしまいました。

☆中之池小学校基安分校☆

 基安分校運動場(昭和30年)
基安分校運動場跡(平成29年)
高知県境にあった小学校です。昭和12年に中之池尋常小学校の分校 として設置されました。急斜面に造られた運動場は、鉄骨を組み平坦部分を広げるなどの工夫をしていました。(右側の写真の右上に鉄骨の一部が露出しています。)
基安鉱山が旺盛な頃は、たくさんの子どもたちで賑わっていましたが、鉱山の衰退とともに子どもは減り、昭和44年には、閉校となりました。

☆筏津橋(いかだづばし)☆

筏津橋(昭和40年)

筏津橋跡(令和2年)
現在の国道194号が開通する前、西条から高知へ行く道を土佐街道と呼んでいました。その中のひとつ千町道にかかっていた橋です。
昔、「木流し」で流してきた木材がこのあたりに集積したため、 この地を筏津(筏須)と呼び、そこにかかる橋を筏津橋といいました。
明治時代、加茂村の人口は3000人を超えていて、人も馬も荷物も数多くこの橋を行き来しました。
老朽化が進み昭和40年初めには通行禁止となり、昭和50年頃筏津橋は姿を消し、現在では、吊り橋に使われていたワイヤーロープが残っているのみとなっています。

☆荒川小学校☆
(昭和42年)
校庭にて(昭和42年)
(平成10年)
校庭跡(平成10年)
私の母校荒川小学校です。
昭和42年当時、児童数は約30人、山の中の小さな学校でした。
昭和48年3月に閉校、現在は駐車場になっており 当時の面影を残すものは何も残っていません。
学校がなくなると、周辺の人家も次々とこの地を去り、 現在では、大変寂しい地区となってしまいましたが、 後ろの山の風景だけは、当時と変わっていません。

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