加茂の鉱山


高知県境にあった鉱山集落(基安地区・昭和31年)

西条市南部の石鎚山のふもとには、かつて多くの銅鉱山がありました。
この地域は、愛媛県では、松山市南部、西宇和郡についで銅鉱山の多い地域でした。
愛媛の銅鉱床は、中央構造線以南の三波川系結晶片岩中に含銅硫化鉄と黄鉄鉱が層状に分布する 層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)と呼ばれていて、新居浜市の別子銅山がこのタイプの鉱床では世界有数であることから、別子鉱床とも呼ばれていました。

加茂村には、基安(もとやす)、新居(にい)、千町(せんじょう) の3鉱業所と谷崎、ホコ石等多くの採鉱現場があり、さかんに採掘を行い、村もにぎわっていました。
しかし、鉱脈の枯渇と共に鉱山は次々と閉鎖され、昭和47の基安鉱山の閉山を最後に 加茂地区から姿を消してしまいました。
最後の閉山から40年以上経過した現在では、当時の面影をしのぶことはできなくなり、 地域の人々の記憶からも忘れ去られようとしています。
このページでは、かつて加茂地区のドル箱的存在であった加茂の鉱山の歴史を振り返ってみたいと思います。

基安鉱山(もとやすこうざん)



伊予富士の北斜面にある坑口(平成17年撮影)

基安鉱山は、高知県との県境にある伊予富士(標高1756m) の北斜面(標高1,168m)に鉱床があった鉱山です。

風透の「アゼチ」に大正初期まで住んでいた『山内家』の先代が、 明治の初めに、桂の木の生い茂っている付近で銅の採掘をはじめ『桂鉱山』と 呼んでいたのがはじまりと言われています。
堀り方は手掘り、運搬は仲持ち、精錬は焼釜の方法で行って いました。
『桂鉱山』は、明治40年に一度閉山となりました。

大正3年に朝鮮弘益殖産(株)の手に移り、再び採鉱をはじめ、大正5年には 枝折~基安間に索道を架設しました。 その後、大正10年に枝折~船形間に森林軌道が新設され、トロッコ で船形まで搬出するようになりました。

昭和4年には、基安・川来須(枝折)間の索道により、本格的に開発されました。
数年間は出鉱状況が良好で、従業員100人~120人、月産400トンの銅鉱石を算出していました。その後は、漸次衰微の状態のまま維持していま した。



鉱石運搬用の停留所跡(昭和56年撮影)
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※平成26年現在この建物は取り壊されています。
その後、優勢なる鉱脈を発見し、昭和18年には住友鉱山株式会社 の経営となりました。
住友鉱山は昭和19年、枝折~下津池~黒石間延長18キロに索道を架設し、 別子の選鉱場がある新居浜市黒石駅まで鉱石を送りました。

黒石駅からは別子本鉱からの鉱石とともに専用鉄道で、星越選鉱場へ 送られ、そこで浮遊選鉱され、四阪島で粗銅に精錬されていました。

戦後は、昭和26年から本格的出鉱を再開し、27年には出鉱量も月産1,000トンを超えました。

昭和32年からは、輸送コスト削減のため、川来須からトラック輸送で 運ばれるようになりました。
最近まで、川来須の下手の国道沿いに、索道からトラックへ 積み替えていた鉱石運搬用の停留所跡が 残っていましたが、今は取り壊されています。

基安鉱山の坑道は県境を貫いて、高知県の黒滝、一の谷の諸鉱山にまで連なって いました。
最盛期の昭和31年には、月産2,500トンを 超える銅鉱石を算出し、72戸の鉱山集落 があり、500人あまりが生活していました。

昭和31年の従業員数は140人で、社宅73棟、独身寮2棟(28室)、配給所、浴場、診療所 、学校等の施設がありました。
鉱山は3交替勤務でしたので、社宅街からは三味線、銭太鼓の音が いつも流れていたそうです。
基安分校は、複々式2学級で、昭和12年に開校し、昭和44年に 閉校となりました。

【昭和30年代の基安集落】


基安分校と社宅

雪の基安集落

仕事に向かう人々

朝のミーティング


    【平成17年の基安集落跡】


工場跡(その1)

工場跡(その2)

今も残っている建物

索道跡

索道の残骸

ズリ跡

【山中に点在する坑口】




    【坑口の位置】


伊予富士の北斜面(標高1168m)に坑口がある

坑口付近から見上げた伊予富士(1756m)

基安鉱山は、県下有数の鉱山として繁栄していましたが、昭和39年には年間産出量 が激減し、昭和40年代に入り、採掘量や経済面、その他事業経営 などが悪化し、昭和47年7月31日に閉山となりました。
閉山と同時に、建物等すべて取り除かれ、現在ではここに鉱山集落があったことなど想像できなくなっています。
旧寒風山トンネル付近からみおろすと、当時を偲ぶことが出来る大きなズリ跡を確認することができます。

「アゼチ」の山内家は、大正7年頃西条市の常心に母屋を移し、 その後今治へ転出しました。 山内家の母屋は、現在千町高智神社の社務所となっています。

◎新居鉱山(にいこうざん)

新居鉱山跡(平成11年)
新居鉱山跡(平成11年撮影)

加茂川の上流、川来須(かわぐるす)の対岸にあった鉱山(海抜650m) です。

元禄年間に、扇山の斜面の中腹に「鉾石(ほこいし)鉱山」として開坑しました。
鉾石という名は、鉱山があったさらに上の山の斜面に、高さが10mもある巨岩が鉾のようにそそり立っていて、その岩陰に小さな祠を建てて「鉾石さん」と信仰していたことに由来します。

大正時代には精錬設備を有して開発され、その後、昭和8年に日本鉱業の手によって操業を始め、昭和15年頃盛況を呈し、年間約4,000トンの産銅量がありました。

川来須は、新居鉱山が盛況であった頃は、繁華なまちであったようです。
酒屋、質屋、宿屋、簡易劇場などがあり、地区の向こう側には建物がずらり と並んでいました。地区の上部にホコ石山の精練所がありました。
現在でも、杉木立の中に鉱石を炊いていた「かまど」が ずらりと並んでいるのが確認できます。

鉱石は、川来須へ索道で降ろされ、ここから軌道を利用し船形まで 運ばれ、西条港から大分県の日本鉱業佐賀関精錬所へ運ばれ精錬されました。

昭和27年に閉山となり、現在は、川来須の対岸の赤茶けた山肌が 当時の面影を残している程度です。

【平成17年撮影】


下から見上げると大きなきなズリ跡

大きな鉱石の固まり

高知県境の山々が眼前に迫る

【平成19年撮影】

扇山の中腹には、当時をしのばせる構造物が数多く残っている。

◎千町鉱山(せんじょうこうざん)

千町地区の南側の尾根を少し越えた所に鉱床があった鉱山です。

大正初期に開発され、大正末期に閉山しました。

この鉱山の鉱石を搬出する目的で、大阪に本社のある日本窒素肥料株式会社が大正2年から8年間かけて八之川まで軌道を新設し、このことが 加茂地区の木材の運搬に大きな変化をもたらすことになりました。

千町鉱山の鉱石は、索道にて八之川(現在の迫門橋の少し上流)まで降ろされ、新設された軌道にて搬出されていました。

千町鉱山は、大正末期の閉山後30年近くそのままになっていましたが、昭和28年に山中建設によって再び掘り進み銅の算出を再開しました。当時は従業員6名程度で小規模に操業していました。鉱石は、索道で八之川まで降ろされたあと軌道にかわって新設された予土産業開発道路(現在の国道194号)を利用してトラックにて運搬されました。その後、2年程度で操業権が他の人の手に移ったあと採算が合わないということで昭和33年頃に完全に閉山しました。

鉱山跡には、今でも採掘口とレール及び当時使われていたトロッコが残されています。

   ⇒千町鉱山の採掘口(平成26年2月23日撮影)

千町鉱山跡(昭和59年1月撮影)↓ 


今も残る採掘口


トロッコの残骸(その1)


トロッコの残骸(その2)

千町鉱山跡地に残る採掘(試掘)口跡(平成26年2月撮影)↓

レールとトロッコの残骸が残る(第1)          第1の近くにある(第2)

奥深く掘り進んでいる(第3)           入り口に石積みがある(第4)

◎谷崎鉱山(たにざきこうざん)
川来須の竿谷の左岸を100mくらい上がったとろこにあった鉱山です。

いつ頃開坑したのかはわかりませんが、別子銅山の大店の伊予屋によって始められたと言われています。
掘りだした鉱石は、一斗缶ほどの小さな鍋で大保子谷へ運びそこで銅に吹き上げていました。
明治末期に閉山しましたが、昭和初期に日本鉱業が旧坑を取り開けて探鉱し、可採鉱脈を掘り当て数年間は活況を呈しました。
◎大保子坑・日の出坑(おおふここう・ひのでこう)
大保子坑は、昭和10年頃大保子谷の源流近く標高1100m程のところで銅鉱脈が発見され新居鉱山の支山として開発が始まりました。
富鉱帯にあたることなく、3年くらい探鉱して閉山しました。
日の出坑は、大保子坑からさらに標高で300mくらい登ったところにありました。
◎加茂鉱山(かもこうざん)
主谷の奥深いところにあった鉱山です。
活況を呈することなく、探鉱のみで終わりました。
◎荒川山鉱山(あらかわやまこうざん)
荒川の下分から李集落へ行く歩道の途中にあった滑石を算出していた鉱山です。
昭和26年8月に開発され、昭和27年1月から出鉱が始まり、昭和35年頃まで操業されていました。坑道は2本あり、生産量は200トン〜500トンの間で、索道にて県道(現在の国道194号)まで降ろされ、トラックにより運ばれていました。今では、坑口もふさがれて当時の面影をしのぶものはほとんど残っていません。

山中に残る坑口跡(入り口は土でふさがれている)

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