加茂川林業 |
加茂川流域の山林地帯は、黒色片岩または緑色片岩の肥沃な林地で樹木
の生育に適し、古くから加茂川林業地帯として栄えてきました。 産業構造の変革のあおりを受け、今日では森林資源への依存度は下がって いますが、加茂地区の住民の生活の糧であった加茂川林業の歴史を紹介します。 |
1.加茂川林業の生い立ち加茂川林業のはじまりは明かではありません。
西条藩の宗藩は紀州家で、その林政に従い山林の保護育成がなされました。 この点は、久万林業が紀州の井部栄範(いべえいはん)によって、紀州吉野林業の影響を受けた のと似ています。
江戸時代に育成された森林も明治になって乱伐されましたが、西条営林署
の前身である円山苗圃の経営が行われ、造林技術や、伐木造材技術の向上
など、加茂川林業の発展に大きな影響を及ぼしました。 |
2.植林のはじまり 加茂川林業地は、人工造林400年と伝えられる森林もあるように 一部の地域では、すでに江戸時代の初期から植林が試みられた ようです。 |
3.焼畑造林加茂川林業地帯において、造林の進展を支えてきたものとして、焼畑
耕作による植林を無視することはできません。 |
4.木材の搬出加茂川流域の山林地帯は、地形が非常に急峻で、その険しい山中に 立ち入り木材を搬出するため、人々は大変な苦労をしました。 ここでは、加茂川林業地帯の木材の搬出方法の変遷を調べてみたいと 思います。 ◎人肩による搬出
加茂地区の人々は林業を生活の糧にしていました。
それ故、木材の搬出も人力により行う場合も多く、それにより現金
収入を得ていたようです。 木材の搬出が機械化され、どんな山奥でもどんな大木でも搬出
が可能となった現在では、人力での搬出は姿を消してしまいました。 ◎木材の流送加茂地区の中央を南北に流れている加茂川は、 絶好の木材搬出の手段でした。 (木流しの方法) ☆集材 木流しのできる川までの間は、昔は人の肩あるいは負い縄による人
力運搬、もしくは駄馬による運搬を行っていました。 木流しは、年中できるものではなく、真冬は上流が凍り流材には不適当
なので、春から夏にかけて流しました。 ☆木流しの量 木流しの量は、多いときと少ないときではだいぶ格差がありましたが、一度
に五千本から七千本を流したといわれています。 ☆木流しの準備 川岸あるいは土場に積み上げられた木材は、雨が降り水量がふえるのを待って流
しました。 ☆木流しの要領 まずは、ミトックリという経験者が流しやすいように順序をつけ、川の要所要所
にナカミト(人夫)を配置し、カワザライがついて流木をせめ(誘導すること)
ながら流しました。 ☆土場揚げ 土場揚げは人夫の責任でした。それは各地でいろいろな方法がとられていましたが、
加茂村の荒川地区では丸太を3本使った「サンキチ」と呼ばれる土台を、石のおも
しによって川の中にいくつか立てて一種の堤防のようなものをつくり、流れてきた
木材を誘導して陸揚げするという方法がとられました。 加茂川林業地において、江戸時代の初期から木材搬出の手段として行われてきた木
流しも、森林軌道の完成(昭和5年)により次第に行われなくなり、昭和20年頃
からまったく行われなくなりました。 ◎木馬道
この道は、東之川鉱山の鉱石を搬出するために、明治以前に造られたもので
したが、しばらくして木馬道としても利用されるようになりました。 戦前期には各地に木馬道ができ、木材だけでなくいろいろなものの運搬が盛
んにおこなわれていました。 ☆木馬道の構造 木馬道は幅が1.5mぐらいで、「さな」と呼ばれる雑木をたくさん並べて
ありました。 ☆木馬の構造 ☆木馬による木材搬出作業 木馬による木材搬出作業は、家族連れまたは夫婦、親子ですることが多かった
ようです。 ◎索道☆「とばし」による木材搬出 索による木材搬出が、いつ頃から行われていたかは明かではありませんが、
明治40年頃、大生院村の伊藤牛蔵氏(明治6年生まれ)が、現新
居浜市の角野や大野山で索道による木材の搬出をしていたという
事実があります。 尾根筋の適当な場所から谷筋の道路まで主索(主とし
て鉄線)を張り、簡単な搬器に木材を吊り、自重により主索上をす
べらせるというもので、ブレーキもなく、いたって簡単なものでした。 ぶつかるときの衝撃を弱めるため、下には木の枝や畳のぼろをおい
ていましたが、それでもかなりの衝撃だったようです。 この方法は、大正時代にはいり、加茂村にも導入されました。 昔から人肩や木馬によってのみ行われていた木材搬出作業でしたので、
この方法は当時としては画期的なものだったようです。 ☆つるべ式索道 「つるべ式索道」は、主索を二本平行に張り、搬器には曳き索を取り付けて、
それを滑車に掛け、井戸のつるべのようにして搬出する索道です。 ◎森林軌道☆日本窒素肥料株式会社による軌道の新設 大正2年、大阪に本社のある日本窒素肥料株式会社が、千町(せんじょう)鉱山の 鉱石を運搬する目的で、神戸村・船形(かんべむら・ふながた)から加茂村八之川まで軌道を新設(大正10年完成)しました。 ⇒鉱石運搬用軌道の位置図はこちらこの軌道は木材搬出用としては利用されませんでしたが、
このことがその後、加茂村の木材搬出作業に大きな変化をもたらすことに
なりました。 ☆加茂土工森林組合の結成
大正の末期になって千町鉱山が閉山したのをきっかけに、この軌道借り受
けによる木材搬出の熱が高まってきました。 このような状況の中で、昭和2年12月24日、村長伊藤善也氏が組合長となり、
軌道の借り受けとその延長を目的とする加茂土工森林組合が結成されました。 土工組合は資金の調達に苦労し、伊藤善也村長はじめ村の
山林所有者が集まって相談の結果、低利資金を借りることになりました。 軌道敷設工事は昭和3年7月に開始され、約2年後の昭和5年5月18日には神戸村船形から、加茂村川来須(かわぐるす)まで総延長 15.756qに及ぶ軌道が完成しました。 この軌道の開設により、加茂村の木材搬出は以前に比べると
かなり容易になりました。 ☆森林組合経営の行きづまり。 組合の経営は、しばらくの間は順調でしたが、
低利資金とはいえ何万円ものお金を借りたことや、
日本窒素肥料株式会社に軌道の使用料を払わなければならな
いので、四苦八苦の経営をするようになりました。 当時加茂村では、木材搬出業によって生計をたてている人
が多かったので、軌道の除去は大きな痛手でした。 軌道による木材の搬出作業は、下津池(川来須)〜船形間を1
往復で1人役、八之川〜船形間は2往復で1人役でした。 加茂地区で使われたものは、幅が約1m40p、
長さが1m50〜60pぐらいの大きさでした。 ☆軌道の除去 昭和30年頃になると、軌道を利用して搬出されていた基安鉱山
の鉱石は、住友・立川の方へ索道で搬出されるようになりました。 そのような状況の中で、加茂村の人々にとって
悲願であった予土産業開発道路(西条〜高知間)の建設が着々と進み、
軌道の利用度は次第に低くなり、トラック運材へと移行していく中で、
軌道は次々と除去され、昭和32年には完全になくなってしまいました。 予土産業開発道路は、その後、国道194号線となり、 昭和39年には寒風山トンネルが完成し、西条〜高知間が初めて車道で結ばれました。 |
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