加茂の伝説 |
◎うすぐも姫(風透) |
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天正2年(1575年)、土佐窪川城(高知県高岡郡)の城主山内常清に一人娘が 生まれ、天女のように育ってほしいと「うすぐも姫」と名付けました。
うすぐも姫は、それはそれは美しいお姫さんに育ったそうです。弱肉強食の時代、姫の縁談も城攻めの格好の口実となり、山内常清は伊予の国湯月城 城主河野通直に相談し、千町伊東近江守に姫の保護をまかせ、風透山に住まわせる
ことになりました。
いつの頃からか姫のもとに夜が更けると一人の貴公子が現れるようになりました。男は、雨の日も風の日も一日も欠かすことなくやってきました。 姫は、最初は口もききませんでしたが、足しげくかよう青年に品格を感じ始め、
やがて恋のとりこになってしまいました。
ある夜、姫は召使いと男が来るのを待って訪ねてみました。「あなた様は、なぜ真っ暗な闇夜にしか来て下さらないのですか。できることなら 一生おそばにおりたいのに。」男はこう答えました。「私の家柄を人に言うのは実に恥ずかしい。こういう私の姿も、他の人に
見られた上は、もうここへは来ません。今夜が最後です。」姫は、さすがに別れの悲しさに、男の帰っていく所を知ろうと、男の着物の裾に糸をとじつけました。
翌朝、その糸をたどっていくと、止呂淵の蛇神が住むという風透山の風穴 に入って消えていました。 姫は、衝撃が大きく病気になってしまいました。 傷心の姫はいつしか身ごもっていました。たが、月満ちて生まれてきたのは、小蛇の群でした。
姫は驚きと産後の高熱にうなされて亡くなってしまいました。 まだ、21歳の若さでした。 |
◎止呂淵の伝説(下津池) |
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昔、上流から木材を流しましたが、止呂淵のところで全部水没してなくなって しまいました。
仕方なくある男が淵に入って探すことになりました。
淵の底深くに一人のお姫様がいたので、男は、木材を出してくれるように たのみました。
お姫様は「出してあげるから、私がここにいたことを絶対に口に出さないよう 誓ってください。」というので、男は約束しました。すると、木材はたちまち淵の上に浮かび上がり、無事西条に運ぶことができました。
ところが、男はついお姫様のいたことを口に出してしまいました。そのとたんに、男は死んでしまいました。 |
◎止呂淵の伝説・その2(下津池) |
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昔、止呂のあたりに道忠夫婦が住んどった。
道忠は所用が出来て松山へ行った。何日か経った夜更けに門を『ほと、ほと』と叩く者がおって、道忠の妻は、「誰ぞいのー。」と問うと、夫の声がして「道忠、今もんたぞ。」と、云うもんで、妻は喜んで夫を迎え入れ、酒希でもてなして床についた。妻は、夫の肌がいつもより冷たいのを怪しく思ったが夜路を帰ったせいじゃろと思って問いもせず枕を並べた。
さて、朝になって、一緒に寝とったはずの夫の姿がない。あわてて探したがどこにもおらなんだ。そうこうするうちに本物の道忠が帰ってきた。妻は夫にことの由を話したら、前のは偽物であることがわかった。驚きと恥ずかしさで、妻は心が狂うてしもた。
月満ちてお産をした。が、人の子でなうて数十匹の蛇の子じゃった。その蛇を捨てたところが竹藪になって『一蔵藪(いちぞうやぶ)』と呼んだそうな。蛇をつまんで捨てた箸をさいたら、竹がさかさまに生えたんじゃと聞いとらい。止呂の蛇神が道忠に化けて出たと云われとらいの。
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◎犬人三神(川来須) |
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昔、やり投げの名人といわれた河村甚三という猟師が、 高知からやってきて、中の池や川来須(かわぐるす) の民家に宿をとって熊狩りをしていました。
あと一頭で千頭の悲願がかなえられるというある日、桑瀬峯の西黒森の東側 へ白と黒の愛犬二頭を連れて熊狩りに出かけました。日が西に傾き、猟をあきらめて帰ろうとしたとき、岩かげに一頭の大熊を見つ
けました。
得意のやりで射止めようとしましたが、不思議に当たらず、 河村甚三は、大熊を相手に大けがをしてしまいました。愛犬の白と黒は、主人のために大奮闘をして大熊を倒しました。この出来事を知らせようと白と黒は川来須へ戻ってきましたが、村人は
一向に気づきませんでした。
白と黒はしかたなく、もう一度現場へ引き返し、主人の袖をもぎ とって口にくわえてふたたび川来須へ戻ってきました。帰りが遅いので心配をしていた甚三の家族は、口にくわえた
袖をみて異変に気づき、川来須の人に救援をもとめて現場へ急ぎました。
しかし、すでに遅く甚三は、息絶えていました。村人は、甚三の霊を現地にお祀りしました。また、白と黒の犬は、主人に殉じて死んでしまいましたので「犬人三神」
として祀りました。
このこと以来、主谷(おもだに・川来須の上流)で白と黒の犬を見つけた日は、 仕事を中止して、急いで家に戻らないと不幸な事故にあう と言い伝えられています。
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◎狸の集まり(下津池) |
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下津池にある褄白(つまじろ)神社の褄白狸はの、狸の中の大親分じゃそうな。家来がなんと、36もおっての、全国に散らばって神さんに祀られとるそうな。
旧暦の7月6日の晩には、全国から狸さんが集まってきての、1年中の仕事を 親分に報告をするんじゃと。そこで、止呂橋のたもとへお三方を置いとくと、狸は魚になって川を登ってきての、
ここでこよりになってお三方に上りお社へ集まっての。
八堂山の狸はの、「早朝から八堂山へ登ってくるみいなの足を丈夫にしてやったんじゃ。」新居浜の子女郎狸はの、「不景気での、お供えもろくにないし、腹をすかしとるのよ。」松山の子染狸はの、「風呂へはいりにくる人のリュウマチを直してやっとるんじゃ。」と、口々にいいよったら親分の褄白狸が、「御所はんや八之子狸は何も言いよらんが、一体何をしよったか。」と、問うたので、御所はん狸はの、「水はええし、米はたーんと取れるし、願いごとやかないけに、ひまでひまでしょうがないんで
、はがいなって化しちゃとるのよ。」
小豆洗(あずきうり)の狸はの「山からおりてくるのは、米やか持っとるのはおらんけに、小豆を盗んで川で 洗ろとらいの。」
八之子の狸はの、「盗む物やら持っとらんけに、人のあとをばたばたばたばた追いかけとらい。」すると誰かがの、「親分は、一体何をしよりましたかの。」「わしか、わしゃのー、全国の人で盗まれたもんや失(う)さしたもんをの、
油揚2枚で出してやっとらいの。」「なるほど、やっぱり親分じゃー。」と、感心してしもたんじゃ、と。
※褄白社については、こちらもご覧下さい。
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◎又兵衛岳(吉居) |
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昔、水無(みずなし)に孫次(まごじ)と又兵衛(またべえ)という力の強い兄弟が住んでいました。
子供の時、この兄弟にはわからない争いで、お父さんは長者と争うて殺されてしまいました。嘆き悲しむお母さんを見て、二人は子供心に悲しい思いをしました。
二人の兄弟は、『お父さんの敵を討ってやろう』と、誓いました。それから二人は山へ出て、山の木や草を飛び越えたり、駈けたりして獣 にも負けない強い青年になりました。
ある晩、長者の家で祝の酒盛りがあることを知った兄弟は、長者の家に忍び込んで ついにお父さんの敵をうつことができました。しかし、長者を殺した罪で、役人に追われることになってしまいました。二人は、お母さんと別れて高い山の洞穴に入って、草木の実や鳥や獣を食べて隠れ住みました。
ある日、とうとう役人に見つかってしまいましたが、なかなか兄弟の 住んでいる山へは寄りつけません。そこで、役人は年取ったお母さんを連れだしてきて
「おまえ達が山から降りてこんと、このお母さんを牢屋へぶちこむぞ。」 とおどしました。もともと親孝行だった二人は、お母さんを助けようと山から降りてきて
つかまってしまいました。
二人が役人に西条へ連れていかれる途中、船形あたりで、大勢の村人が河原で 流れた橋をかけ替えるため、大きな石を動かすのに困っているところに出くわしました。二人はゲラゲラと笑ろて
「あなな石一つ動かすのに多ぜんたかってだらしがない。」 と言いました。村人も役人も腹を立てましたが、どうにもならない石なので、どうせ よう動かさんじゃろと二人にやらしてみることにしました。役人は、兄弟に「えろそうなことをいうたが、やれるもんならやってみい。」
と言いました。
又兵衛は、「よっしゃ。孫次やらんか。」と言い、 川へ入って、その大きな石をなんなく動かして、橋台石にすえて 、人が通れるようにしました。
村人も役人もおどろき、そして感心しました。 そして、この大きな石を『又兵衛石』といって敬いました。
その後兄弟は、母の命ごいを頼んで牢屋に入ったと云われています。
この兄弟が人里から離れて住んでいた洞穴のある山を、 『又兵衛岳』と呼んでいます。又兵衛岳は、吉居から笹ヶ峰へ登る道の谷の向こう側にそびえています。
⇒又兵衛岳を目指して(旧国道194号線〜炭の馬道)
⇒再び又兵衛岳を目指して(炭の馬道)
⇒3度目の挑戦!又兵衛岳
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◎餅なし正月(藤之石・荒川・河ケ平・李) |
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「餅をつくとこしきが飛ぶ」こなな古い言い伝えがあっての、 正月に餅をつかん風習があったんじゃ。
それはの、藤之石のあるところにの、お正月のお餅をみいなで つきよったらの、裏口から乞食が入ってきての「お餅をわけてくれまいか」と、せがんだらの、そこの大将はの「お前らにわけちゃる餅やかないわい。」と、乞食じゃとおもて追い返してしてしもたんじゃそうな。
乞食の格好をしとったのはの、神様じゃっての 「身なりを貧しゅうしとったら、馬鹿にして」 と、大変お腹立ちになさっての、蒸しとったこしき(せいろ)
がの、とたんにこしき嶽(明神嶺(みょうじやとう)の下あたり) へ飛んだんじゃそうな。
それからか、このあたりは正月には餅をつかずにこの『うわもり』 と、いうだんごをこさえて餅なし正月を戦前までしとったそうな。
加茂で餅を正月につかんとこは、この藤之石のほかに荒川山 にあるがの。
荒川では、「正月に餅をつくとこしきがこじきや谷へ飛んだ」とか。
河ケ平ではの、「正月に餅をつくと杵が飛ぶ」とか
李ではの、「正月の餅をつきよったら、主が怒ってこしきを投げ 飛ばした」とかの正月の餅をつくのを忌む言い伝えがあらいの。
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◎のびあがり(八之川) |
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八之川の添之谷での、夜になると浴衣を着いて、手拭いをの、こういう がいにうしろ巻きにしたおなごが出てのし、通行人をおどしたり、ひっぱたりしよったのよ。それは、「のびあがり」と、いう狸で女形に化けて出ての、谷筋の
人通りの少ない寂しいところで人々を困らしてしょうがなかったんじゃ。
そこで、組内の者が集まっての、相談をしたら、「ひとつ、添之谷のお地蔵さんにたのんでみるかいのう。」と、いうことになっての、おがんでもろたらの、「盆の十六日と正月の十六日にお通夜をしてあげておくれ。」 と、いうお告げじゃったのでの、組内の者がみーんな集まって お地蔵さんのご供養をしたらの、のびあがりがでんようになっての、 添之谷の狸騒動がおさまったそうな。
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◎首なし地蔵(八之川) |
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土佐街道の荒川道をの、添之谷を渡って一寸行くと添之谷のお地蔵さんが祀ってあるがの。
まえから、「組内を守ってくれるお地蔵さんじゃ。」と部落内で、ていねいにお祀りしたのよ。
昭和19年9月17日の室戸台風のときの、名越という 山がずってきて、添之谷の両ふちの田や畑がたくさん流されて しもたんじゃがの。その時、谷ぶちの大岩の上にお祀りしてあったお地蔵さんも
流されてしもた。えらいお地蔵さんじゃったので、部落内で、「困ったもんじゃ」「困ったもんじゃ」と、困りはてとったんよ。
川の水がひいたある日、中野の幾さんが添之谷筋からそう遠くないところの深く掘れているところにひっかかっとる お地蔵さんをみつけての、「もったいないことじゃ」「ありがたいことじゃ」と、部落総出での、今のところに祀ったそうな。大事な首は、とうとうみつからなんだんのよ。
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◎芝折さん(八之川) |
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八の川の八の子谷の橋のたもとへ、芝を折って お供えする風習が残っとらいの。八の子橋の右手の奥の嶽の上に若宮さんが祀ってあって、 荒川の庄屋はんのご先祖らしい、と聞いとらいの。
千町の伊藤叶次さんが、八の子谷で仕事をしよったらの、「ナルセ(てっぺん)」の嶽の割れ目から人間の骨がみつかっての、「どこの誰やらわからん。」
と、いうことでの、その人骨を弔いもせずに土砂と 一緒に捨てたんじゃそうな。そしたら、叶次さんが高い嶽から放りだされてしもた。なんのたたりじゃろとおがんでもろたら、「あんたは、私を捨てたじゃないか…」
と、おこっとったので、おことわりをしてねんごろに 弔ったそうな。
ここをとおって仕事に行く人はの、誰もが芝を折って、
橋の上の方へ向けて供えての「無事」をいのっとらいの。
八の子谷の橋のたもとにある八の子地蔵の前を 通るときは、付近の芝を折って供えて行くと 帰りの足が軽いという。 このお地蔵さんは、イボとできものにあらたかで、願かけする人も多く、お賽銭や供花がたえません。
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◎千町(せんじょう)の話 |
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昔からどこにでも『おおほらふき』がおるもんでの、千町にもそなな人がおったそうな。
ある日、人の寄り合いの場での 「わしの住んどる千町は、きれいな水があっちの谷にもこっちの 谷にもたくさん流れとるしの、田もたくさんあっての、千町(せんちょう)
もあるんじゃ。ほしてその田で、米が取れて取れてしょうがないほど 取れるんで、どこもかしこもの、米の飯をたらふく食べとらい。」と、声をはりあげて自慢したそうな。
すると、なかに千町のことをよう知っとる人がおっての、「こんなは、田がたくさんたくさんあるんじゃ、と自慢しよったが、 ありゃあ、田じゃない、畦(あぜ)ばっかしじゃが。」
とけなしたんじゃそうな。
『おおほらふき』はの、「うちらへんはの、カマチと言うとらいの。」 と、やりかえしたそうな。
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◎密元(みつげん)の岩屋(八の川) |
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迫門橋のたもとから李部落へ上る道があっての、この道を途中から 左に折れて行くと岩屋谷に出らい。
岩屋谷には、岩窟が四つあらいの、二番目の一番大けな岩窟に密元が住んどったんで、「密元の岩屋」と言うとらいの。
密元の住んどった岩窟にには、庇(ひさし)を出すために堀った溝が残っとらい。 一番目の岩窟は小さいので、今は田の農道具を入れてあるが、三番目の岩窟には 地蔵尊が祀ってあって、四番目の岩窟には秋葉権現をお祀りしとらいの。
密元上人はの、夕方になると蚊がむらがってくるのをそのままじっと我慢しとっての、 しばらく経ってから「もう、そろそろお帰り。」と、いうたそうな。すると蚊は一斉に飛んで行きよったんじゃと。
密元上人は、とってもえらいお坊さんで、岩屋に来られとったのは、修行の ためだったらしいわいの。
神拝に大通庵があらい。そこに密元上人のお墓があっての、標柱を建ててくれてあるけに すぐわからい。あっちへ行ったらお参りしたらええよ。
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◎観音様と鬼岩(千町) |
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昔、昔、千町の北の端の権現塔に青鬼が住んどって、南の端の尼ケ谷(あまんがたに)に赤鬼が住んどったそうな。
青鬼は、毎晩のように赤鬼の所へ通うとった。あるとき赤鬼が、「おまえのとこは、大けな岩があるけに雨が降っても困らんが、尼ケ谷は岩屋がのうて雨降りには困っとるんよ。
岩屋をつくっとくれ。」と頼んだ。今も昔も、男は好きな女の言うことにゃ、とんと弱いもんで…「よっしゃ、よっしゃ、やったるぞ。」と、権現塔の下の赤滝の大岩をひきちぎって、竹にさして、北谷を渡り、中谷も渡って、丸池は素足で渡った。足が塗れて下り坂まで来てもう一息、南谷を渡ると尼ケ谷というところで、『スッテンコロリン』竹は折れて、大岩が『ゴロゴロ、ゴロゴロ』後戻りして、中谷から真下に転げ出した。
この様子を一部始終ご覧になっていた誓願寺の十一面観音菩薩は、「こりゃあ、大変、このまま転げてきたら観音堂がひとたまりもない。それに誓願寺から下の田畑や檀家がまるつぶれになる。何とか観音力で災難をさけにゃいかん、南無、今こそご利益を。」と、お寺の線香で、『ガッチリ』と、大岩を受け止めた。
観音様の霊験で、受けとめたとたん大きな音がして六つに裂けた。お寺の大松の上とその向かいの谷と、石段の下、晩茶の家の後ろと下晩茶の家の前。
一番大きなのは加茂川まで転げて行って川の中へ真直に立ってござった。この大岩は、今でも加茂川筋で一番大きいそうな。鬼岩と呼んどるがの。
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◎愛宕(あたご)地蔵(藤之石本郷) |
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藤之石のお地蔵はんで、神仏合祀で東宮さんとも言うそうな。
境内は8アール余りあっての、素晴らしい根上りの桜の古木があらいの。
低い石段の横に六地蔵、上へ上へ上ると石灯籠。こま犬、鐘つき堂、池庫裡(くり)の敷地跡、法師の墓、水谷のお薬師さん。 石段を数十段上ると金比羅宮も祀られたあらい。
堂守りがおった頃はの、毎月の3日、13日、23日にお仏餉(ぶつしょう)に出かけての、お米をもろて生活 しとったのよ。
北海道から来た大西市助という強力(ごうりき)の法師はの、檀家のもんに相談せずに自分でお墓を移しよったらの、 本堂からほり出されて、桜の木の根もとへ飛ばされて、腰を打っての、こしけが悪なってしもたんじゃと。
このお地蔵さんは、火の守り地蔵での、藤之石では失火による火災はいっぺんもないそうな。
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